ユウレイボヤ
生まれも育ちも学校も関西で、親戚もほとんどが関西。東北は私にとって縁も距離も遠い場所だった。初めて行ったのは宮城県。大学4年の秋、研究材料のカタユウレイボヤを採取するために女川へ行くことになった。女川名物のマボヤとは違って、カタユウレイボヤは食用ではない半透明の小さなホヤだ。女川湾では今でもいいカタユウレイボヤが採れるらしい。あまり実験をしたり海に入ったりした記憶がないから、私は大学院生の手伝いを口実にただ遊びに行っただけだったような気もする。
空いた時間には一緒に行った研究室のみんなと港町を散歩した。私たちは幸運なことにサンマ祭りの日に女川にいた。U字のコンクリートブロックがずらりと並び、網の上でサンマが次々と焼かれ、煙とともにおいしい香りが漂っていた。私たちにも、街の人が焼きたてのサンマを手渡してくれた。炭火で焼いたサンマは香ばしくて、おいしくて、アツアツをハフハフ言いながら食べた。おいしくてたまらず2本食べた。
別の日には、港のすぐそばにあった鮮魚市場へ行った。店の人が「せっかくここまで来たんだから」と、サンマをその場で刺身にして食べさせてくれた。ガラケーさえ持っていなかった時代で、サンマ祭りも何もかも写真に残せていない。女川の景色はぼんやりとした記憶しかない。顔は覚えていないけれど、街の人にやさしくしてもらったことは覚えている。カタユウレイボヤをどのくらい採ったかは覚えていないけど、サンマの味は忘れられない。
2度目に女川を訪れたのは震災の翌年。仙台空港からレンタカーで女川と石巻を巡った。女川に到着すると、海沿いの土地はほぼ全体が更地のような状態で、工事車両ばかりが目に付いた。津波で横倒しにされた建物がいくつか横たわっていた。海岸からすぐの高台に上がると、柱に「津波の記録 津波到達高1階床より1.95m」とあるのを見つけた。驚いて眺めていると、通りがかりの人が「ここまで津波が来たんですよ」と声をかけてくれた。海抜16mの高台を軽々と超えてきた津波をうまく想像することができなかった。
コンテナの店舗が並ぶ商店街や移転した鮮魚市場にも立ち寄った。ただ買い物をしたり、景色を眺めたりするしかできなくて、申し訳ないような情けないような気持ちになった。ある店の人が湾の形が変わったことを教えてくれた時に言えたのはお礼だけ。穏やかな海と若葉の緑が映える美しい景色を眺めたあと、石巻へ向かう途中で瓦礫の収集場や1階の窓が全部抜け落ちた校舎を見た。ただ買い物をしたり、景色を眺めたりするしかできないだろうけど、また行きたいと思っている。もう一度、秋の女川でサンマを食べたい。
ずっと関西で暮らしています。遠く離れた場所にいるけれど、地震に対する恐怖は2011年3月11日を境に膨らみ続けています。神戸の震災のことも、東北の震災のことも忘れることはできません。ユウレイボヤが女川との縁をつないでくれたことを、震災がきっかけでよく思い出すようになりました。本当に取るに足らない話ですが、忘れたくない記憶です。
ユウレイボヤ
ずっと関西で暮らしています。遠く離れた場所にいるけれど、地震に対する恐怖は2011年3月11日を境に膨らみ続けています。神戸の震災のことも、東北の震災のことも忘れることはできません。ユウレイボヤが女川との縁をつないでくれたことを、震災がきっかけでよく思い出すようになりました。本当に取るに足らない話ですが、忘れたくない記憶です。