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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

海から離れず生きた10年

小野春雄

3月11日の朝、海はおだやかでした。私と息子、弟の3人で刺し網漁に行って、仕事を終え自宅に戻って休んでいました。午後の地震の後、町の防災無線で大津波警報を聞き、昔からのこの浜の言い伝えどおり、息子と2人で沖へ船を出しました。弟も私のもう1隻の船を沖へ出したのですが、ほかの船より遅れて出した上、エンジン故障したため津波に飲まれ船と共に行方不明になりました。

その後、2日にわたって捜索しましたが、発見することができませんでした。家族の安否も不明なので、沖出しをした全船が新地の港に戻りました。わが家があった釣師地区は全滅し、この世の風景とは思われなかったくらい驚きました。

その後、家族を探し続け、再会したのは夕方でした。3月13日の朝、誰かが原発も爆発したとお話をしていたのを聞いて、弟の捜索ができなくなるのではないかと不安になりました。私達家族は、町が提供した避難所に移り、生活をしながら港へ行ったり、遺体安置所をめぐったりしましたが、とうとう弟を発見することはできませんでした。

ところが、お盆前に仮埋葬を準備していたところ警察から連絡があり、DNA鑑定で判明し、火葬された弟とようやく対面できました。そのような心配が重なって、私も体調を崩し、生まれて初めて病院通いをすることになりました。ストレスで体重も増え、これではだめになると思い、心機一転、体を鍛えるため、地元の山、鹿狼山に毎日登り始めました。そのうち組合から瓦礫の撤去を頼まれて、ようやく船で海の仕事ができるようになり、翌年は試験操業も開始され、魚も捕ることができ、元気を取り戻しました。

又、弟の供養のため友人と2人で、山形の出羽三山まで徒歩で参詣しました。令和元年の春には四国八十八カ所の歩き巡礼を他の友人たちと始め、一番の寺から十九番まで終えて、何年かかってもやりとげたいと思っています。

さらに東京オリンピックの聖火ランナーに選出され、今年こそ福島の漁業者に希望を与えられるように走りたいと願っています。

改めて、この10年を振り返りますと、弟の命を助けられなかったことは悔やまれますが、さまざまな人と出会い、震災前は井の中の蛙のような生活であったのが、広い世界を知ることができました。

例えば「新地町の漁師たち」というドキュメンタリー映画に出たことなどがあります。その後、民俗学の先生にも出会い、昔から今までの新地の漁業についての本を作るため私の船、観音丸の乗り子にさせながら調査を続け、まもなく1冊の本が出版されます。

しかし、10年経っても漁業の先が見えない不安な毎日です。今でも試験操業のため目の前の海を自由に使えない上に、魚価が安く、さらに今、国と東電がトリチウム水を海に流そうとしております。廃炉も見通しがつかないので、100歳まで現役で海に行き、漁の手伝いをしながら、復興した豊かな海を見届けたいと願っています。

自己紹介や手記の背景

私は福島県の最北端の新地町で中学校卒業後、3代目の漁師をして、50年以上、漁業に携わっております。そして息子達3人も漁師にさせました。
津波で船1隻だけ残して、全財産を流しましたが、10年かけて、家と船と資材を新たにしました。
この変化の大きかった10年を振り返るために手紙を書いて、応募しました。

海から離れず生きた10年

小野春雄

自己紹介や手記の背景

私は福島県の最北端の新地町で中学校卒業後、3代目の漁師をして、50年以上、漁業に携わっております。そして息子達3人も漁師にさせました。
津波で船1隻だけ残して、全財産を流しましたが、10年かけて、家と船と資材を新たにしました。
この変化の大きかった10年を振り返るために手紙を書いて、応募しました。

選考委員のコメント

筆者が福島県新地町の漁師さんであることを知ると、この10年の「無念」が伝わってくる。それは弟さんを失った無念であり、津波によって浜が流された無念であり、福島の原発事故によって海へ出られなくなった無念であり、と、数々胸に浮かぶ。しかし、筆者は、それらの「無念」に流されていない。それどころか「震災前は井の中の蛙のような生活であったが、(震災によって)広い世界を知ることが出来ました」と書く。失ったものへの嘆きを綴らず、あくまでも命の再生へと向かう海の男である筆者の姿に、深く心うたれる(小野和子)。

連載東北から
の便り