Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

東京から疎開して

秦 岳志

震災当時住んでいた築60年の文化住宅は、震源から遠く離れた東京でも大きく揺れた。これが小さい頃からずっと「来るぞ」と聞いていた関東大震災かと一瞬思ったが、その後テレビに映ったヘリの中継映像によって、私の想像を越えたものであることが段々分かってきた。

こんな状況でも上の子をスイミングに連れて行った義母は「ボイラー故障で今日は休みだって」と少し不満そうに戻ってきた。なんとなく嫌な予感がした私は、いつもより早めの時間に出て車にガソリンを入れ、下の子を迎えに保育園に向かった。この時はまだ誰も、帰宅難民となる保護者の帰りを多くの子が夜中まで待つことになるなど想像すらしていなかった。

夜になり福島第一原発の危機的状況が報道され始めると、私の関心は津波や地震の被害より原発事故へと向かっていった。80年代末、チェルノブイリ原発事故後の反原発運動の盛り上がりの中で、当時中高生だった私は関連書籍を読み漁り、近所のちょっと年上のお兄さん達と反原発系のパソコン通信のホスト局を運営していた。当時問題になっていた福島第二原発3号機の事故を受けて開かれた東電交渉には、学校を抜け出して参加した。原発事故がいつどこで起きてもおかしくないと本気で心配し、全国に設置した手作りガイガーカウンターの値を集約するシステムをみんなで構築した。

あれから20年。通報システムは通信環境の変化と共に稼働停止し、それ以上に私自身の危機意識がまったく低下してしまっていた。事故直後、「ほら見たことか、と言いたくなる」という知人のツイートを見たが、実際その時が来てしまうと、事の重大さを前に愕然とするばかりでとても誰かを批難するような心の余裕はない。

翌3月12日午後、1号機の爆発を受け両親が住む長野への疎開を決める。出発前、同じように小さい子を持つ友人たちに恐る恐る電話をかける。可能なら避難した方がいいかもしれない、と伝えるだけだけど、事情があって動けない場合、相手を傷つけてしまう。しかし勇気をもって話してみると、皆同じように悩んでいた。「うちは動けないけど、できるんだったら気兼ねなく行った方がいい」と背中を押してくれた、赤ん坊が生まれたばかりの先輩の言葉に涙が出た。

その後さらに岡山の親戚宅へと疎開の旅は続いたが、ツイッターでは東京を離れていることは内緒にし、保育園には体調が悪くて休みますと言い続けた。後で聞いたら、1年生だった上の子のクラスで休んでいたのは、うちの子だけだったらしい。

あれから10年。今度はコロナ禍で再び毎日マスクの日々。あの時と同じような同調圧力を感じながら。朗らかな陽気に洗濯物を外に干そうと思い、漠然と胸に不安がよぎる。いやいやウイルスは空から降ってくるのではないぞと言い聞かせる。そんなある日、タイムラインに「元気に10歳の誕生日を迎えました」という先輩のツイートが流れてきた。

自己紹介や手記の背景

当時東京在住だった私は、東北で被害に遭われた方々のことを考えたらとても手記を書くような立場などではないとずっと思っていましたが、先日ツイッターのタイムラインに、当時生まれたばかりだった先輩の子が10歳の誕生日を迎えたとのツイートが写真入りで流れてきて、10年前、東京で小さな子を持つ新米の親として経験した逡巡を、これを機会に記しておくのも許されるのではないかと思い、書いてみました。今またコロナ禍で、同じように例えば登校すべきかどうかなど悩んでいる親子がいるかもしれませんが、それぞれの選択をお互い尊重し合える社会であってほしい、と思います。

東京から疎開して

秦 岳志

自己紹介や手記の背景

当時東京在住だった私は、東北で被害に遭われた方々のことを考えたらとても手記を書くような立場などではないとずっと思っていましたが、先日ツイッターのタイムラインに、当時生まれたばかりだった先輩の子が10歳の誕生日を迎えたとのツイートが写真入りで流れてきて、10年前、東京で小さな子を持つ新米の親として経験した逡巡を、これを機会に記しておくのも許されるのではないかと思い、書いてみました。今またコロナ禍で、同じように例えば登校すべきかどうかなど悩んでいる親子がいるかもしれませんが、それぞれの選択をお互い尊重し合える社会であってほしい、と思います。

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