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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

今も容易に思い出せること

純金

-2011年3月11日14時46分頃、宮城県沖でマグニチュード8.8の地震発生-
地震当日に私が見て感じた出来事は、10年経った今でも、いつでも容易に思い出せる記憶です。

当時仙台市で大学院生をしていた23歳の私は、その日は春休みのため自宅にいました。知人から譲ってもらったラジカセで本間さんがMCのラジオ番組を聴きながら、こたつでノートPCを弄っていました。ラジオの中が突然騒がしくなったかと思うと電源が切れ、PCもバッテリーモードになりました。なにか変だと思った直後、自宅が徐々に揺れ始め、普段の地震ならこれくらいでおさまるだろうという思惑は外れ、それまでに経験したことのない長さ、強さの揺れを体感しました。

大学に保管していた研究標本が気になったためすぐに家を出て、自転車に乗って大学に向かいました。その道中、いつも脇を通っていたブロック塀は倒れ、交差点は渋滞し、信号の光が消えていました。ビル街に入ると歩道にガラス片が散乱し、看板か何かがぶつかって切れた電線が垂れ下がり、マンホールからは水が柱となって吹き出していました。

大学に着くと、研究室で研究をしていた先生や研究室の仲間たちが屋外に集まっていました。駆けつけて開口一番「サンプルは大丈夫かな?」と発した私に後輩が「人の心配をしてください!」と言ってくれたことが私を冷静にさせてくれました。

被害状況を確認するために先生らと一緒に研究室の中へ入ると、壁にボルトで固定されていたはずの金属の本棚が倒れ、多数の書籍が散らばっていました。その間も時折来る余震に怯えながら、できる範囲で状況を確認し、持ち出せるPC類だけ持ち出しました。実験室に入ると、薬品の臭いが充満しており、ガラス瓶が割れてしまっているようでした。有機溶剤やアルコールの臭いがしたので、危険と判断し後日処理することになりました。屋外に戻ると、地震と因果関係があるかはわかりませんが、突然大雪が降り始めたことも印象に残っています。これが地震発生から1時間くらいの出来事でした。

研究室での状況確認を終えたのち、当時課外活動で身体障害者の介護ボランティアをしていた私は、仙台市と名取市で地域暮らしをしている3人の「障害者」の家を自転車で順番に回りました。3人のうち2人は介護ヘルパーの方やご家族が来ていたので、一人暮らしをしている方の家でその日の夜は過ごすことに決めました。自転車で回っていたのですっかり夜も遅くなり、その方の家に着く頃には自転車ライトと星明りのみが光源でした。電気のない都市はこんなに暗いのかと、普段のようではない当たり前の出来事が印象に残っています。結局、その後はその方の家に3月末まで滞在することになりました。繰り返し流れる内容の同じラジオ報道やテレビCMを覚えています。

地震の翌日からはその方の家を拠点として各所を回りました。災害が起こる前の「いつも」なら簡単に買えた食料品、飲料、嗜好品をはじめ、ガソリン、灯油、水、トイレまでも並んで買う、用を済ますという状況でした。移動は基本的に自転車でしたが、地盤の隆起や陥没によりマンホールが杭のように飛び出し、アスファルトが歪んでいました。

地震後4年半ほど仙台市で過ごしました。その間の復旧、復興の様子は確実に進んでいたと感じています。丸10年目の今年は昨年から続くCOVID-19の影響で「いつも」はいつもではなくなりました。地震、津波のように全ての思い出と家財が奪われる目に見える悲しみではないですが、目に見えない恐怖に怯え苦しむ日常が丸1年続いています。ワクチンが承認されはじめ、復旧の兆しが徐々に見えはじめている今を大切に生きようと思います。

自己紹介や手記の背景

当時23歳で仙台市で大学院生でした。その日の記憶です。

今も容易に思い出せること

純金

自己紹介や手記の背景

当時23歳で仙台市で大学院生でした。その日の記憶です。

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