きのした あい
東日本大震災のあった2011年、私は仙台の大学に通う学生でした。あのときは部活動で大学にいて、大きな揺れに驚いたものの、怪我もなく仲間も全員無事でした。私は一人暮らし組の数人と共に行動することにしました。住んでいた地域には大きな倒壊も津波の被害もなく、アパートの水は使い続けることができましたが、電気もガスも使えないまま。食べものだってなんだってただ与えられるままに生活していたけれど、当たり前じゃなかったと痛感しました。また、ラジオや新聞で沿岸部の被災状況や原発事故を知って不安な心持ちでしたが、仲間と助け合いながら、自動販売機や避難所で、飲料や食べものや情報を少しずつ調達して生活しました。その後電気が復旧したことで、高速バスで各自実家に帰る手はずが整い、3月16日頃に、被災生活は終わりました。
ガスの復旧にあわせて、4月上旬にまた仙台に戻りました。部活やボランティアに参加するなか、あるとき放射能のことを考える場に参加しました。そこでは初めて会う人同士、それまでに集めた情報や知見を共有しながら互いに話していたとき、家庭を持ち、不安を抱えながら毎日を過ごしているという人たちに対して、私は「そんなに怖いなら他の地域に越せば良いのに」というようなことを言いました。それがどんなに暴力的な言葉か、そのとき20歳の私は、ちっともわかっていませんでした。
それから3年が経つころ、私はアルバイトや市民活動への参加を通じて、仙台市沿岸部に暮らす人たちに会いに行くようになりました。はじめは本当になにもわからないままついていったような形でしたが、そこで震災前の地域の暮らしについて話を聞いたり、震災後のことを聞いたり、地域で開かれるイベントのお手伝いに行ったり、そうして知り合っていくうちに、そこに暮らす人たちにとって「その地で生きていく」ことがどれだけ大事なことかを理解しました。生まれ育ったまち。自ら、家族と、耕し、自ら、まちのみんなと、自治し、支え合って暮らしてきたまち。景色も含めてなにもかもが、かけがえのないものであること。実家が賃貸で転々とし、自らも地方に出てきて一人暮らしをしていた私には、驚くほどの発見で、感動でもありました。
同時に、わたしは数年前の自分の吐いた言葉を猛烈に後悔したのでした。実際に、放射能やその後の津波への恐れから、家族で遠くに越した人たちもいたでしょうが、それはできないという人や、その地で暮らしたいというのにはいろんな理由や背景があって、それをあの頃の私は全く理解していなかったのでした。あの頃、外からかけられた言葉に、傷ついた人は多かったでしょう。同時に、私のようにそのときの行動や言葉を後悔反省している人も、やはり多いのではと思います。
東京の田舎から大学進学と共に仙台に行き、震災から5年たった春に仙台を離れました。
あのころ、ものが十分に無いなかで、人と人との寄り添いが救ってくれた部分が多かったように思います。全く見ず知らずの人とでも避難所やお店や街中で声をかけあったり、会って話したり共にごはんを食べることが、被災地域の自治の復興にも大きな役割を果たしていたと思います。けれどコロナ禍にあってそういったことが簡単にはできなくなってしまった。去年の夏に骨折入院した祖父がひとり弱っていく様子をタブレットを通した面会で見るたびに、仙台で会った人たちと重なり、はやく触れあいたいと願ってしまいます。
きのした あい
東京の田舎から大学進学と共に仙台に行き、震災から5年たった春に仙台を離れました。
あのころ、ものが十分に無いなかで、人と人との寄り添いが救ってくれた部分が多かったように思います。全く見ず知らずの人とでも避難所やお店や街中で声をかけあったり、会って話したり共にごはんを食べることが、被災地域の自治の復興にも大きな役割を果たしていたと思います。けれどコロナ禍にあってそういったことが簡単にはできなくなってしまった。去年の夏に骨折入院した祖父がひとり弱っていく様子をタブレットを通した面会で見るたびに、仙台で会った人たちと重なり、はやく触れあいたいと願ってしまいます。