Kazu
2011年3月11日午後。
この日は勤務先の工場棟において次週に出荷する装置の出荷準備をしているところでした。この装置は高さ3mぐらいあり震災が起きる30分くらい前まで同僚が脚立に登って装置に接続されたケーブルの撤去作業を行っていました。装置の出荷準備も一段落し、ほっとしていた14時46分に地震が発生しました。
この本震が起きる数日前から地震が頻発していて、最初は「最近は地震が多いな」と思っていましたが、揺れは収まらず激しくなるばかり。ここに居ては危険だということで「逃げろ!」言葉を合図に試験場にいた全員が外へと退避しました。揺れが収まるまで工場棟の外にいましたが工場棟付近の地下貯水槽はひび割れを起こして水が噴き出し、電線から火花が出た瞬間に停電が発生するなど、今までに体験したことがない地震に死への恐怖を感じました。
本震の揺れが収まった後、災害時の避難場所となっているグラウンドへ集まるよう指示がありました。従業員の点呼を実施し行方不明者や怪我人がいなかったとのことで一安心しました。自宅や親の携帯電話に電話をしましたが、電話回線はパンクしているようで繋がらずの状態でした。家の状況は確認できませんでしたが、おそらく無事だろうと思うことにしました。建物の安全確認が取れるまではグラウンドでの待機状態が続きました。
携帯電話のインターネットにて地震の被害状況を確認しました。「震源地は三陸沖で最大震度は7」、「津波も発生しているようだ」。時間が経つにつれ深刻な状況になってきていることが分かりました。帰宅指示が出たのは17時ごろでした。荷物を取りに一旦事務所へ。建物の被害が大きかったようで人数を制限しての入室でした。
18時くらいに勤務先の駐車場を出発。停電で信号が止まっている為、至る所で大渋滞が発生していました。道路の崩落による通行止めなどで迂回し、自宅に着いたのは20時ごろでした。自分の住んでいる近所は地盤が悪く、道路の陥没や電柱が傾くなどしていましたが、自宅のほうは特に目立った損傷もなく、両親も弟も無事で一安心しました。
電気がつかない真っ暗な台所にて夕食を済ませた後、母親に自分の部屋は物が散乱していて入れないので隣の弟の部屋で寝るように言われました。懐中電灯で自分の部屋を確認して見るとCDや本を始めとして部屋のほとんどの物が落下または散乱している状態でした。もし本震のときに自分の部屋にいたら無傷では済まなかったと思いました。
帰宅後も数分に1回の割合で余震が続きました。布団に潜り暗闇と揺れが続くなか携帯電話を開き、TwitterなどのSNSやメーリングリストで友達の安否を確認しました。皆さん何とか無事のようで安心しました。自分もTwitterで無事であることを投稿しました。
※ 本手記は、水戸芸術館現代美術ギャラリー「3.11とアーティスト:10年目の想像」展を通してご応募いただいたものです。
茨城県ひたちなか市の電機メーカーの事業所に勤務。東日本大震災当時も現在も勤務先は同じです。東北地方と同様に茨城県も東日本大震災で甚大な被害を受けました。震災直後の記録を残しておきたいと思い、今回の企画に応募しました。
Kazu
茨城県ひたちなか市の電機メーカーの事業所に勤務。東日本大震災当時も現在も勤務先は同じです。東北地方と同様に茨城県も東日本大震災で甚大な被害を受けました。震災直後の記録を残しておきたいと思い、今回の企画に応募しました。