Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

連載東北からの便り

復興カメラ 今月の一枚

2020

12

みんなの家
かだって

2020年11月14日 みんなの家 かだって(釜石市只越町)

2011年5月8日

—その写真には何が写っていますか?

新しい写真には、「みんなの家 かだって」が写っています。
  
震災後の2012年6月に完成しました。
  
今は、私たちNPO法人@リアスNPOサポートセンターの事務所として使われています。
  
写真には写っていないですが、すぐ左側には復興住宅があります。
  
皆さん、釜石市内から転居されてきました。
  
海辺の漁村集落から来られた独居の高齢者もいらっしゃいます。
  

  
古い写真には、私たちの法人の当時の事務所が写っています。
   
壊れた看板に「Yanagidaya」って書いてあるでしょ。
  
紳士服のお店だったところをお借りして、2004年に立ち上げたんです。
  
商店街も元気がなくなっていくなかで、どうすればみんなが安心して釜石で暮らすことができるのか。
  
それを考えるための場所が必要だったんです。
  
私たちの原点です。
  
震災後は、仮設住宅の談話室などでのサロン活動(おちゃっこ)や、地元住民に向けての情報発信、県外からやってくるボランティアの人たちに向けての情報発信など、いろいろやりました。
  
スタッフのひとりに写真店の人がいたんだけど、その人が「貴重な記録になるから、どこに仕事に行く時も、カメラを持っていこう」っていうアイデアを出してくれて。
  
スタッフがそれぞれにどんどん撮り始めて、膨大なストックになっていきました。
  
そのうち、写真を見てもらおうということになり、瓦礫でパネルを作って、東京で展覧会をやりました。
  
それが復興カメラのはじまりです。
  
「みんなの家」が建つ前の、2011年7月から活動が始まっています。
  
ちなみに、左側に建った復興住宅は、震災前はカラオケ店でした。
  
年に1回は同級生との集まりで使わせてもらっていました。
  
津波に流されてしまった友人がいて、それ以来、今も集まれていないんですけどね。
  

  
2004年にNPO法人を立ち上げた時、いちばん最初にやったのが、商店街のみんなが使えるトイレを「かだって」につくったことです。
  
みんなわらわらと集まってきて、お茶っこが自発的に行われていました。
  
子どもたちもよく来てました。
  
震災後しばらくすると、まわりにTETTO(釜石市民ホール)やイオンができて、「かだって」が当初果たしていた「集いの場所」としての役割はいったん一区切りしたように感じています。
  

  
いろんな災害が起こるたび、その場所に暮らしている人たちが被災とそれからの復興の様子を、それぞれのかたちで残せたらいいなと思ったりします。
   
一方で、復旧・復興工事がひと段落して、まちの風景がそれほど変わらなくなってきたときに、何を記録していけばいいんだろうとも思います。
  
復興カメラ、いつまでやるのかな?
  
何を撮ればいいのかな?
  
そんな悩みが多くなっています。
  
そんな時、アーツカウンシル東京の佐藤さんに「写真を撮るという行為そのものが大事だと思う」って言われたことがあって、自分たちの背中を押してもらえた覚えがあります。
  
復興カメラの写真って、特別うまい、とか、表現にこだわっています、とかじゃないんです。
  
いわゆる“アート”が出発点じゃないんです。
  
記録を残す、自分たちの今を伝える。
  
それでいいんじゃないかと思っています。
  

話し手|川原康信、上野育恵(復興カメラ)
きき手|松本 篤(AHA!)

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