Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

連載東北からの便り

復興カメラ 今月の一枚

2021

2

釜石保健福祉センター
屋上
 

2021年1月19日 釜石保健福祉センター(のぞみ病院)屋上

2018年2月8日

2016年2月19日

2013年2月14日

2011月3月12日

2011月3月11日(14時55分)

—その写真には何が写っていますか?

釜石保健福祉センター(のぞみ病院)の屋上から、港のほうを写しています。
  
南東の方角です。
  
新しい写真から古い写真に遡りながら見ていきましょうか。
  

  
2021年1月19日に撮影された写真には、手前に黒い外観のTETTO(テット|釜石市民ホール)が写っています。
  
右の奥のほうに、営業中のホームセンターが見えます。
  

  
2018年2月8日に撮影された写真には、完成直前のTETTOが写っています。
  
2ヶ月後の4月1日にグランドオープンしたんです。
  
ホームセンターも、ちょうど建設の真っ最中です。
  

  
2016年2月19日に撮影された写真には、営業中のイオンモールが見えます。
  
2014年にオープンしたんです。
  
釜石市が震災復興の一環としてイオンに打診し、出店が実現したらしいです。
  
TETTOは、建設工事がはじまったところでしょうか。
  
ホームセンターは建っていません。
  
その奥に見える三陸鉄道は、2014年に全線で営業を再開しています。
  

  
2013年2月14日に撮影された写真には、TETTOもホームセンターもイオンも建っていません。
  
三陸鉄道も、釜石駅までの運行はまだ再開していません。
  

  
2011月3月12日に撮影された写真には、津波のあとが写っています。
  
手前から奥に向かう道がありますね。
  
そのドン突きにある2階立ての、青いラインが入っているのが、釜石保育園(現かまいしこども園)です。
  

  
2011月3月11日の14時55分に撮影された写真には、横断歩道を渡る保育園の先生と園児が写っています。
  
指定避難場所になっている山側の薬師公園に避難している瞬間です。
  
保育園からまっすぐ道なりに進んで、横断歩道を越えて少し進むと、公園の入り口の階段に着きます。
  
当時、園児は0歳から5歳の約80名が在園していました。
  
子どもたちはパジャマ姿です。
  
ちょうどお昼寝が終わる頃だったらしいです。
  
先生方が薄着で避難しています。
  
子どもの靴をビニール袋に入れて運んでいますね。
  
いかに緊迫しているのかが分かります。
  
地震から10数分後に避難を完了し、園児、職員全員が無事でした。
  
火災と津波の避難訓練を隔月で実施していたそうです。
  

  
住民の中には、津波はどうせ来ないだろうと思っている人もたくさんいました。
   
園児が避難している姿を見て、つられて避難した人がけっこういました。
  
そのあと、この辺りの道路という道路は大渋滞します。
    
少しでも初動が遅かったら、大人数の園児を連れての避難はかなりの困難を伴っていたと思われます。
  
翌12日の写真を見ると、園児と先生たちが歩いた避難経路は津波にのまれていました。
  

  
園児と先生たちは釜石保健福祉センター(のぞみ病院)に避難しました。
  
私もNPOの催しで保健福祉センター内にいたので、その時のことは断片的に覚えています。
  
園児は看護師さんの休憩室で休みました。
  
瓦礫で道路が寸断されていたので、保護者の方は園児をすぐに迎えに来ることができませんでした。
  
本当に子どものことを心配していたと思います。
  
その日中に子どもの無事を確認できていた保護者は、そんなにいなかったと思います。
  
病院での数日間の避難所生活では、子どもたちは先生の話をちゃんと聞いて静かに行動していました。  
  
誰も騒ぐということはなかったようです。
  
3月15日の午前に最後の園児を保護者に返すと、先生たちは自身の家族が待つ避難所に向かいました。
  

  
この写真は、NPO側が講師としてお招きした新潟県の都岐沙羅パートナーズセンターの方が撮影したものです。
  
2014年に提供していただきましたが、はじめて見た時の衝撃は今でも忘れません。
  
先生方の冷静で迅速な避難行動が、そこにありました。
  
80数名の園児だけでなく、付近にいた多くの命を救ったことを思うと、ぐっとくるものがあります。

話し手|川原康信、上野育恵(復興カメラ)
きき手|松本 篤(AHA!)

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