Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

連載東北からの便り

2020年リレー日記

2020

7

7月27日-8月2日
きむらとしろうじんじん(美術家)

7月27日(月)

天気|曇り時々雨、静岡では時に豪雨

場所|日中は静岡、夕方から京都自宅

静岡での野点(のだて)開催に向けてのお散歩会・説明会・ミーティングを終えて、京都の自宅に帰る。ロクロでお茶碗の高台を削る作業。

さて、日記ということで始めるのですが、実は今まで日記というものを書いたことがない。でも、日々書き留めている言葉は沢山ある。それは「野点」に関して、「地域の子供と大人のあそび場・作業場作り」に関して、各開催地域の方々や主催者・スタッフ・現場を共にしてくれる人たちとメールで交わしている膨大な言葉。それが僕の日記であり、日常。

毎日、野点の現場のこと、開催地域、その風土、人々、風景のことを考えている。2011年の震災の時もそうだった。直後に考えたのは仙台の◯◯さんや◯◯さんのこと、青森の◯◯さんのこと、東京の◯◯さんや◯◯さんのこと・・・。かれらと連絡が取れて、初めて頭の中が少し具体的になって、ただただ観念的な理屈と漠然とした不安だけが膨れ上がっていく状態から脱出できた気がする。そして、震災後に野点でお邪魔するようになって、岩手の大槌や釜石のことを考えることもまた僕の日常になった。

その土地の具体的な人のこと風景のことを思い浮かべながら、話しながら、考えながら、ロクロをひいたり窯を焚いたり、作業する。

というわけで、最近の日常は「このコロナ禍における大槌や釜石や仙台や村田や金ヶ崎や静岡や山谷や谷中や西成や亀岡や鳥取や用瀬や豊中の人々のことや風景のことを考え、色んな方々とやりとりすること」。ず〜っと、そのことを考えている。

だから、それしか書くことないなぁ、と思う。

静岡から帰って来たばかりなので京都に居るけど、考えてるのは静岡のこと。午前中、市の担当者・財団の担当者・プロジェクトの代表者・美術館の担当者の方々と秋の野点の現場を「この状況下」で開催するにあたって、現場のしつらえ、作業の段取り、スタッフや立ち寄ってくれる方々への相対し方など、それぞれに関して具体的にどのような対策をとるか? どうすれば実施可能か? などを細かく具体的に検討・擦り合わせをして帰ってきた。すごく重要な、ええミーティングだった。

出ました〜「この状況下」(笑)。

「この」って、どんな状況なんだろう? コロナ禍を「的確に対象化して捉えること」なんてできるんだろうか? 科学という意味でのウイルスの分析は進むんだろうけど、どうも、そういう話じゃない気がする。むしろ、分析して僕(ら)は何をしようとしているのか? の話。

20年前に幼稚園や小学校の門に監視カメラが一斉に付き始めたときも、2011年の震災のときも、そしてこのコロナ禍でも感じること。

大転換期だ、みたいな話は、どうもしっくりこない。自分のおなかに落ちない。

でも、とにかく、今どんな話をしておくかが、この先の人間関係や街の懐の深さを作っていくのだろうという予感はある。それは多分ガイドラインの話や感染者の数の話や生命に関する紋切りスローガンの話とは違うんじゃないかしら?(いや、なんか、それでは足りないと感じるのです)
自分は何をもって生としているのか? 何を命としているのか? という所まで掘らんとあかんのちゃうかなぁ・・・。色んな人と話をしておきたいなぁ、と思っている。

7月28日(火)

天気|曇り時々雨、時に豪雨

場所|終日京都の自宅

東京・山谷バラエティーロードの主催者・スタッフとZoomミーティング、それ以外は終日お茶碗の高台削り作業。

この3月14日に、ある野点開催地の友人宛に送ったメールを以下引用します(個人名は伏せて、長〜いので一部省略)。

・・・・・・・・・・

新型コロナウイルスをめぐる今回の騒動(と呼んでいいのかな?)

僕にとってはHIV・AIDSのNGO活動をしていた頃のことがフラッシュバックし続ける経験となっています。ウイルスの話が、どんどんイメージと道徳観の話の方にスライドしていく。感染した人はウイルスとの闘い(あるいは共生)ではなくイメージとの闘いを強いられる。そして始まる「犯人」探し。きっと「絶対安全」と「撲滅や制圧」がスローガンになっていくのでしょう。

人間は大昔から(定住・農業・人口増以降という但し書きはつくとは思いますが)ずっと、無数のウイルスや細菌・微生物を交換し合いながら生きてきた・・・もちろんそれは手放しで喜ばしい関係なんてものではなく、最初から人間と共生するウイルスもあれば、人間を攻撃してしまうウイルス、広がりや時間の経過で人間が免疫を獲得して共生に移行したウイルス、様々であり、これからも恐らくそう・・・人が場を共にするということは、ミーティングしてるだけのことでも、御飯を一緒に食べてることも、セックスも、ただ隣に座ってることだけでも、お互いの持ってるウイルスや細菌の交換とイコールです。僕と◯◯さんとの会話は、お互いの意見交換でもあり、ウイルスや微生物交換でもある。

それを全部やめちゃうのか?

どこまでやめるかの正解なんてあるんだろうか?

「絶対安全」なんてことを(それは人間の・生命の全否定にも等しいと僕は思うのですが)簡単に目的化しちゃっていいんでしょうか?

もちろん感染をできるだけ抑えることには意味があるし、医療崩壊が起こってはいかん。

でもね、と、どうしても思ってしまうのです。

ここから先は多分、人間観や生命観・死生観にも関わることだろうと思うので、安易に誰かに同意を求めてはいけない領域の話だと思いますが。

これ以上、(自分自身も含めた)人間が「直接出会い、場を共にすることを嫌う生き物」になっちゃったら・・・僕は嫌だなぁ〜・・・です。どうやって生きていっていいのか(まあ、今でもわかってませんし、もうかなりの歳なんですが・笑)わからん。

「無菌の人間(いないですけどね、そんな生き物)」による「絶対安全な行為」だけが「公共として許される」

目指すは絶対安全・完全無菌の、でも多様性のある社会・・・なんて・・・もう全然笑えない冗談。

(引用ここまで)

・・・・・・・・・・・

あれから5ヶ月経ちましたが、基本的にはこのメールを書いた時と気持ちは全く変わっていないなぁ、と思う。

人間が「直接出会い、場を共にすることを嫌う生き物」になっちゃったら・・・僕は嫌だなぁ〜・・・です。

この、なんとも個人的で、感情的で、身勝手で、のんきで(僕にとっては、ほんまに切実なんだけど・・・)、きっと公共心や危機感が足りない! と怒られそうな、でも、身体の芯から感じてる「嫌だなぁ〜」を、おずおずと、でも大切な基準にしようと今も思っている。

7月29日(水)

天気|曇り時々雨

場所|日中は京都市内に外出、その後自宅

日中、友人のお店(ごはん屋さん)にお邪魔して、沢山の世間話と野点のツアー前作業の手伝いスタッフ集めに関しての相談。その後お茶碗の高台削り作業。

昨日の「嫌だなぁ〜」の続き。

徹底的に「悔しがって」「惜しみ」たいと思う。失われるかもしれない(と僕が勝手に恐れている)状況にあるもの・こと・感覚を。

一つ一つ時間をかけて、とことん惜しんで、悔しがって、それが存在し続けられるよう手を尽くしたい。

道ばたで人がうっかり出会って機嫌良くなってしまうこと。思わず起こる越境と摩擦。見知らぬ人と世間話したり、場を、ときには作業を共にすること。論理に基づいた価値が担保されていなくても人やものごとが存在できる場所。意味に囲い込まれていない余白。つまり「路上」。偶然やなりゆき。本来計測解釈なんてできない、その場の光、風、匂い、肉感、質感、音、人々の様子も含めた風景全て。論旨やスローガンの共有ではなくノイズの分有。縁や運という素晴らしい言葉でしか言い表せないこと。勘違いや「まぬけ」なことも全部。その場を観念的にではなく「具体的に」共にしていないと起こりえない心身すべてを使った交歓・交感・交響・・・もちろんかすりもしない寂しい時間も含めてね。

新型コロナウイルスが登場する「前から」風前の灯だったものが、とどめを刺される気配。どんどん狭められていく余白がついに消滅して、かわりに広がる無限の液晶画面。自分の大好きな現場や風景や作業が消えそうでムキになってるおっさんの杞憂の可能性大。いや、そうだったらええなぁ。そんな簡単になくなるわけないじゃん、って楽観する自分と、自分も含めた人間の感覚の変化によってあっという間に消えてしまいそうな予感に、マジで恐怖を感じる自分。

ウイルスによって失われるのではないですよね。それを僕(たち)がどう捉えるか、が起こす社会的な状況や空気、自分(たち)自身の感覚の変化によって失われていく、という言い方の方が正確だと思う。コロナが奪うわけじゃない。僕(ら)が勝手に失うのだろう。

このまま自分も含めた人間がどんどん人と直接出会うことを避けるようになって、人と人が直接出会うことによって起こりえるありとあらゆることを事前に予測・解析して、出会ってもいい安全な(とされる)人を、出会ってもいい安全な(とされる)場所を、どこまでも精密に選別できるようにしようとすることは、何をもたらし、何を失わせるのか・・・・・・それをじっくり考えたい。

何を惜しむかっていうことでしか、現れてこないことがある。

「新しい◯◯」や「変わらなきゃ」なんてこと(脅迫)については、「失われそうな大事なことを十分惜しんで、実践できることはして、それから」ですわ。

大仰に考え過ぎかなぁ〜。頭冷やした方がええよ、とも思う。

変わっちゃえばいいのに、無くなっちゃえばいいのにって思ってたことも沢山あるんだけど、そういうもの・ことに限って残りそうで、イライラしたりして(笑)・・・いや〜、ほんまに身勝手。

避けがたい根本的な変化は、きっと「僕にとっての大事なこと」には関係なく、じわじわ、もしくは突然、勝手に起こっちゃうんだろうしね。そりゃ、もう、しょ〜がない。

惜しんで、ジタバタする。

7月30日(木)

天気|朝方豪雨・そののち曇り時々雨

場所|終日京都の自宅

岩手・釜石での野点に関してのZoomミーティング、その後お茶碗の高台削り作業。

リモートでのコミュニケーションには決定的に欠けているものがある。それはコロナウイルス。

コロナウイルスが「無い」という安心感の下でしか関係を結べない・出会えない・コミュニケーションできないという感覚が、このままどんどん進行していったらどうなっちゃうんだろう? 僕にはその方がずっと深刻なことのように思える。もちろん取り囲まれている環境や情報や町の状況によって、意見(いや、身体感覚?)は分かれるんだろうけど、今の僕はそう感じている。

現実に存在するウイルスのことを「無いように振る舞えることが安心な正しい状態」だと感じることは、現実にいる人やあることを「無い」ことにして成立している世界と相似形のように思える。考え過ぎかしら? なんちゅうか、根源的な生命を否定しながらヒューマニズムだけは表面的にスローガンにしているような・・・どうも気持ち悪い。

「遠い」っていうのは「遠い」ってことだし、「近い」っていうのは「近い」ってこと・・・あぁ、とっても大事なことだ、と感じたのは2011年の震災のときでした。

マスクして、ビビりながら、相手がどう感じているのかを不安に思いながら、恐る恐る、人とできるだけ会って、場を共にしてみることを(誠に勝手ながら)これからも自分の杖にしていこうと、現時点では、思っている。

コロナウイルスの話はおもしろい。必ず重要なことにつながる話になるから。

先月、大阪・西成の現場再開のための滞在中、飛田という遊郭街の北隣の商店街のアーケードを歩いていると、向こうから3人組の女の子が歩いてきた。普段着なんだけど、なんか目立っていて、どうしても目が行ってしまう。どうやら(僕が勝手に見て取ったところでは)飛田で働いているらしい3人は、歩きながら身体を揺すって大笑いしながら話している。すれ違うときに聞こえた会話。「裸にマスクはヤバいわ〜(笑)」「そりゃ、ヤバいわ!!(3人とも爆笑)」

彼女がマスク着けてたのか? 客が着けてたのか? そもそも、彼女たちは飛田で働いているのか? 心から笑ってたのか?

わかりません。僕の見立てが間違ってたら、ほんまごめんなさい。

でも、通り過ぎてから一人でめっちゃ噛み締めて、その後一日中、なんか(誠に勝手ながら)じわ〜んと、よかった。

そのとき頭に浮かんだ「まぬけな風景」を(誠に勝手ながら)大切にしよう。

7月31日(金)

天気|晴れ・久しぶりの夏の暑さ

場所|終日京都の自宅

明日からの大阪・豊中でのお散歩会・説明会の準備。ロクロ作業、高台削り。

昨年末コロナ騒動が始まったとき、僕の場合は「直接コンタクト」がプロセスでもあり、結果・成果でもあり、最大の喜びでもあり、仕事でもあり、唯一の(?)職能でもあるので、あっという間に「陸へ上がった河童」状態になった。さあ、現場の予定が全く立たない状況で準備作業なんて始められるのかしら? と思ったのですが・・・いざロクロをひいてお茶碗を作り始めると・・・作業はできちゃう。しかも、まあまあ機嫌良く(笑)。変えられないのか、変えたくないからなのか、多分両方なんだろうけど、とにかく変えようにも変えられない「具体的な」習慣や作業に自分の精神が支えられていることを強く感じている。

「新しい生活様式」っていう言葉がほんまに腑に落ちない。

ソーシャルディスタンスって概念は、幼稚園の入り口の監視カメラや、公園のベンチにおっちゃんが寝ないようにくっつけられている不細工な金属ハンドルみたいなものと似ている。

そもそも、新しいか、古いか、という論理に自動的に織り込まれている「脅迫」が嫌いだから、ということもあるけれど、

それ以上に、もしほんまに変わらなあかんことがあるとしたら、それは新しい◯◯なんてことではなく、人間が人間自身のあり方を対象化して解析・制御・改良できると思い込んできた(今も思い込んでいる)「遠大な勘違い」の方なんじゃないか・・・という思いが強いから。人間がウイルスや人間自身を含むこの世界? 自然? コスモス? 生態系?(何と言って表すのかわからないけど)を対象化して共有すべき価値観やグランドデザインを・・・という思考回路の方がいよいよ糞詰まってるんちゃうか?・・・と。

その意味では、転換期という考え方やテクノロジーによる適応は、むしろ、今まで通りの考え方・やり方の延長線上という意味では何の変化も無いよなぁ?・・・と。

もちろん、その「遠大な勘違い」の積み重ねの上に僕は立ってるんだし、じゃあ、どうすんねん? と問われたら、そんなもんわからんわ、なのだけれど。

コロナウイルスの話は、最終的には「何をもって生命としているか」の話にたどり着いちゃう。だから、重要だし、おもろいし、でも、しんどいのだと思う。自分が何を生と命と呼んでいるかを一気に問いつめられているように感じるから。

◯◯ちゃんや◯◯さんの身体のことはとっても心配だ。機嫌良く元気でいて欲しい。でもそれは、絶対コロナウイルスに感染しない状況にいて欲しい・・・ということとは、僕の場合は、はっきりと違う。ウイルスを軽視しようとは思わないし、実際びびってるし、医療崩壊が起こったらほんまにいかんと思う。それでも(だからこそ)ウイルスや感染者をゼロにするためではなく、感染が起きたときにお互いどうふるまえるのか、どんな関係を作れるのか、そのために今のうちに色んなことを話しておきたいと思う。

「生命は大切」というスローガンの生命って何のことなんだろうか? 脳が動いてて、心臓が動いてて、息してる・・・そのこと?

人の命を大切に思ってるの? 思ってないの? という二者択一の質問は「ほんまの質問」なんだろうか?

最終的にはウイルスも感染者もゼロにすることが正解、という前提での「問い」に包囲されちゃった感覚。

他人の生命を大切に思うことと、他人の生命を勝手に人質に取ってスローガンにすることは全く違うと思う。生命全般に対して責任を感じるというのは、なんか、すごく思い上がったことのように感じるときがある。いや、結局ただのエゴ丸出しの自己弁護かなぁ? でも、やはり、他人の生命を「勝手に理由に」しちゃいけないんじゃないかしら?

何を生とするか、何を命とするか、何を生の根幹とするか、何を命の根幹とするか「こそ」、ほんまにそれこそ、それだけは、「自分」のものなんじゃないかしら? 「そんな、おまんまが不味くなるようなこと考えたくもないわ」であれ「そんなもん、なりゆきやで」であれ、何であれ。僕は(最終的には「そんなもん、なりゆきでしょ」って言いたいんだけど)せっかくなんで、もうしばらく粘って考えてみたい。もちろん一人では考えられない。でも「みんな」で一斉に結論出したり、「誰か」に結論出してもらうことじゃ〜、ない。

8月1日(土)

天気|晴れ・猛暑日

場所|終日大阪・豊中

丸一日、豊中野点の説明会&お散歩会&妄想屋台の相談。マスクをして「暑いわ〜」と言いながら、ビルに逃げ込んで冷房にあたりながら、公園の水路に足を浸しながら、豊中の街の魅力的な開催候補地を見て歩く。そして、じんじん・主催者・スタッフ希望者・妄想屋台での参加希望者、それぞれの現時点での疑問点も不安な事もできるだけテーブルの上に出しながら、コロナ禍での秋の野点&豊中プチ妄想屋台祭りをどんな場にするかを具体的に検討・相談。

先月の豊中でのお散歩会。十数人で豊中駅前(かなり大きな駅前です)を歩いている時に、お父ちゃんと一緒に参加していた3人きょうだい(毎年お散歩会にも野点の本番にも参加してくれてる)の一番下の4才の女の子が、急に歩道にしゃがみ込んで敷石の一角を人差し指でつんつん押して、嬉しそうに僕らの方を見上げて「これっ、押せるよ〜!!」と言って笑った。「え、何? 何が押せんの?」と近づくと、敷石と敷石の間の十字路に直径が十円玉ぐらいの透明な樹脂製の円柱が埋め込まれていて「下に電話線が埋まってますマーク(?)」が付いている。たしかに、なんか、透明のちょっと格好いいマーク付き押しボタンのように見える。「ねぇねぇ押せるよ〜!」・・・僕もしゃがんで押してみたが、堅い樹脂なのでほとんど凹まない・・・けど確かにちょ〜っとだけ押せるような感触もある。彼女と僕だけでなく、小学生のお兄ちゃん・お姉ちゃんもしゃがみ込んで「ねぇねぇ、押せるよね〜(妹)」「うわっ、ほんまや、押せる〜!!(兄・姉、興奮)」「う〜ん、ちょっとだけ押せるかなぁ(僕)」「ぜったい押せるよ〜(妹)」・・・・・・だんだん路上に人が集まってきた。彼女は集まってきた見ず知らずのおばちゃんにも通りすがりのおっちゃんにも「ねぇねぇ、これ押せるよ〜!!」

いや〜、心の底からあの変な「ボタン」になりたいわ(笑)、で、押されたい。

やっぱ、恐る恐るであろうが、マスクをしながらであろうが、2m離れようが10m離れようが、いや〜不安だよね〜って言いながらでも、会って、場を共にできた方が僕には「気持ちいい」。不安なまま会う練習しようよ。だめ?(誰に聞いてんだろう)

こんな状況だから、心配事の話の量が増えちゃうけれども、それでもちょっとずつ具体的な話をする。ちゃんと時間をかけて。生命を十把一絡げにした話でなく、不安を持った個々人同士の話を。物理的条件についても精神的な条件についても話しながら具体的な場のしつらえを相談して、準備する。「コロナ禍に対する不安を持ったまま実現する、すんばらしい直接コンタクトの現場」を思い描く。

8月2日(日)

天気|晴れ・酷暑

場所|終日大阪・豊中

昨日に引き続き、豊中野点の説明会&お散歩会&妄想屋台の相談、全6回の最終日。「熱中症注意!」を合い言葉に最後のお散歩。昨日の日記で書いた「押せるよ〜」の子供たちは今回お父ちゃんだけでなくお母ちゃん&おばあちゃまと一族で参加。
午前中は一番の候補地・豊中稲荷神社の下見をして横の公園で「けいどろ(警察泥棒おにごっこ)」。午後は、今までの散歩で僕も含めてみんなが一番惚れた場所である千里川の魅力的な土手と河原を下見して、橋の下で「メダカとり」。最後にもう一つの有力候補地、池や小川がある広〜い久保公園で「セミ取りとすべり台」。今日が初参加の小学生の男の子も、みんなと一緒になって水浸しで遊んだ。帰ってきて最後の「開催場所絞り込みのミーティング」。これからの方向性を確認して「じゃあ、秋に現場でね!!」と解散。

「現役の」公園や河原や路上が多い町はほんまに気持ちいい。子供でも大人でも、そこに愛着を持っている人、その風景に対して感情が(喜怒哀楽、何でも)動いている人がいれば、それが現役。風景に対して感情が動いているから反応がある。ほめられたり怒られたり心配されたりできる。現役だから柵が低い。現役だから言い訳の論理で価値を担保しなくていい。現役だから意味や主旨で囲い込まなくていい。現役なら監視カメラはいらないと思う。風景は人に影響を与え育み、その人のありようもまた人に影響を与え育む風景だ。そうあれかしと願う。ノイズカットしちゃだめだと思う。

京都に来て35年ずっと風呂ナシなので、今も銭湯通い。コロナ禍になって銭湯の雰囲気も刻々と変化し続けている。僕自身の作法もきっと少しづつ変化してるんだろう。すっかり来なくなっちゃった人もいるけど、ずっと同じペースで来てる人も多い。緊急事態宣言が出ている間は、相変わらず普段通りの人もいれば、洗い場に入るギリギリまでマスクを着けて、出てきたらまた大急ぎでマスクを着けてからちゃちゃっと身体を拭いて大急ぎで帰る人もいた。やっぱ、みんな無口だったよなぁ〜。でも、宣言が解除になったら急にマスク外して来て、めちゃめちゃ脱衣所で話し込んでる人たちも。でもって、またテレビで深刻な報道が増えてくるとちょっと帰るのが早くなったりして・・・とはいえ、洗い場に入れば2mも距離なんて空けれないし、おんなじ湯船につかって、挨拶もするし、世間話もして・・・湯船で手足をのばすと「まあまあ、しゃ〜ないわ」となってしまう。そうじゃない人も居ると思うけどね。

銭湯がなくなったら、もうあかんやろ(と誠に勝手ながら思う)。

「人間の根本的なまぬけさ」はめちゃめちゃ大事だなぁ〜、と誠に勝手ながら思う。

バックナンバー

2020

6

  • 是恒さくら(美術家)
  • 萩原雄太(演出家)
  • 岩根 愛(写真家)
  • 中﨑 透(美術家)
  • 高橋瑞木(キュレーター)

2020

7

  • 大吹哲也(NPO法人いわて連携復興センター 常務理事/事務局長)
  • 村上 慧(アーティスト)
  • 村上しほり(都市史・建築史研究者)
  • きむらとしろうじんじん(美術家)

2020

8

  • 岡村幸宣(原爆の図丸木美術館 学芸員)
  • 山本唯人(社会学者/キュレイター)
  • 谷山恭子(アーティスト)
  • 鈴木 拓(boxes Inc. 代表)
  • 清水裕貴(写真家/小説家)

2020

9

  • 西村佳哲(リビングワールド 代表)
  • 遠藤一郎(カッパ師匠)
  • 榎本千賀子(写真家/フォトアーキビスト)
  • 山内宏泰(リアス・アーク美術館 副館長/学芸員)

2020

10

  • 木村敦子(クリエイティブディレクター/アートディレクター/編集者)
  • 矢部佳宏(西会津国際芸術村 ディレクター)
  • 木田修作(テレビユー福島 報道部 記者)
  • 北澤 潤(美術家)

2020

11

  • 清水チナツ(インディペンデント・キュレーター/PUMPQUAKES)
  • 三澤真也(ソコカシコ 店主)
  • 相澤久美(建築家/編集者/プロデューサー)
  • 竹久 侑(水戸芸術館 現代美術センター 主任学芸員)
  • 中村 茜(precog 代表取締役)

2020

12

  • 安川雄基(合同会社アトリエカフエ 代表社員)
  • 西大立目祥子(ライター)
  • 手塚夏子(ダンサー/振付家)
  • 森 司(アーツカウンシル東京 事業推進室 事業調整課長)

2021

1

  • モリテツヤ(汽水空港 店主)
  • 照屋勇賢(アーティスト)
  • 柳谷理紗(仙台市役所 防災環境都市・震災復興室)
  • 岩名泰岳(画家/<蜜ノ木>)

2021

2

  • 谷津智里(編集者/ライター)
  • 大小島真木(画家/アーティスト)
  • 田代光恵(セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン 国内事業部 プログラムマネージャー)
  • 宮前良平(災害心理学者)

2021

3

  • 坂本顕子(熊本市現代美術館 学芸員)
  • 佐藤李青(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー)

特集10年目の
わたしたち