Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

あのとき あのまちの音楽
から いまここへ

第3回
表現・想像力・支援

2021年2月23日(火・祝)、第3回目のオンライン報奏会が開催されました。最終回になる今回は、あの日からまもなく10年を迎える2021年3月11日を目前にし、震災後に福島の方々との交流を盛んに行ってきた作家・クリエイターのいとうせいこうさんをお招きし、「ラジオ下神白」のディレクターの筆者(アサダワタル)、現地でマネジメントを務める鈴木詩織さん(一般社団法人Teco)の三人が登場。住民さんの語りや住民さん自らが歌った「メモリーソング」の録音物を聴き交え、「表現」を軸に被災を経験した一人ひとりの「個人」とどうかかわるかというテーマで語り合いました。

語る表現から、聴く表現へ

いとうさんが東北に通うようになったのは、個人の庭に咲くスイセンの球根を被災地に届ける「スイセンプロジェクト」を行なっていた園芸家の柳生真吾さんの誘いがきっかけでした。ベランダ園芸家(ベランダー)としての顔も持ついとうさんにとって、この柳生さんの声かけは、被災地でのかかわり方を模索していたなか「これならすんなり行きやすい」と感じたそうです。最初に訪れた宮城では、ある華道家のふるさとを訪れ、何もなくなってしまったその土地にポツンと咲いたスイレンを遠くから眺めたときに、「ああ、ここにこれを植えたのか」と感銘を受け、そこから小説『想像ラジオ』(河出書房新社、2015年)の構想が湧き上がってきたと語ります。
興味深いのは、被災地にかかわる際の「きっかけ」とその後の「引き取り方」について。いとうさんは、園芸がきっかけとなり東北に誘われ、その体験から小説を書くという引き取り方へと進んだ。これには100人いれば100通りのパターンがあります。「音楽」という表現をきっかけに、「ラジオ制作」や「バンド演奏」という引き取り方をしてきたわたしたちラジオ下神白チームにとっても、共感するお話でした。

一方でいとうさんは非当事者として自身が「書く・語る」ことに抵抗を感じてきたようです。最初は被災された人たちの語りを聞くだけでよかったけれど、表現者としては書くモードに入らねばならない。そのときに生まれる「結局自分が語ってしまった」という負い目と向き合うことに。『想像ラジオ』では丹念に言葉を選んで表現したため、その後に不用意に言葉を発したくないという思いからインタビューの依頼はすべて断ってきたとのこと。しかし、東北学院大学で講演に招かれ、本を販売してくれているさまざまな書店にお礼にまわるなか、書店員がつけてくれた本のビジュアルイメージであるアンテナ(電波塔)のかたちをしたポップを見ながらこう感じたと言います。「このアンテナはもう俺が喋るためのものじゃない。今度は俺が徹底的に聞く番だ」。こうして徹底的に聞くために「モノローグ(独白)」という形式を構想したいとうさんは、その後、『福島モノローグ』のもとになっている連載を東京新聞ではじめることになったのです。

いとうさんは東北各地をまわりながら、何もなくなってしまったかのように見えるまちのなかに「人の気配」を感じるようになります。これは霊感的な話ではなく、「ここでいま誰も話していないわけがない」といういとうさんの直感だったのでしょう。実際にまちの人とリアルに対話をするなかで、「あそこの杉の木に人がひっかかっていて誰も助けることができなかった」という話もいくつも聞き、それを語ってくれた人はきっとさまざまな亡き人たちの声なき語りを受け取っているのではないか、と。そのときにはもういとうさんのなかで『想像ラジオ』というタイトルが決まっていたようです。

いとうさんは、メディア関係者から取材先の縁が生まれ、下神白団地にも訪れていたそうです。しかし、数々の現場を訪れていたため、「あの帰宅困難区域から移ってこられた住民さんがいた団地はどこだったっけ?」と記憶が曖昧に。もう一度訪れたいと思っていたなかで、筆者と都内で行われた障害のある人たちのアートをテーマにしたイベントで共演。震災後、東北に通い続けているいとうさんの活動を知っていた筆者は、楽屋にてラジオ下神白のドキュメントブックを手渡し、住民さんのエピソード、そして彼女ら彼らが大好きな音楽の話をしました。いとうさんは「まさかここであの団地とつながるとは!」と運命を感じてくださったよう。実は以前、いとうさんが下神白団地を訪れた際に現地でアテンドしたのが詩織さんだったこともわかり、トークのなかでも驚きの声をあげてらっしゃいました。
このご縁から『福島モノローグ』では、下神白団地4号棟に暮らす、浪江町出身の髙原タケ子さんが登場。2020年秋、都内の喫茶店にいとうさんと筆者、そしてタケ子さん宅に詩織さんが滞在し、Zoomを使ってオンライン取材を行いました。コロナ禍になり、6月頃から毎月アサダと詩織さんたちTecoチームのオンライン訪問を受けていたタケ子さんはこのやり方に慣れてきたのか、またいとうさんの物腰の柔らかさと丁寧な傾聴の姿勢もあって、とても自然に質問を受け入れ、いつものように浪江町の生家の思い出を大好きな音楽とともに語ってくださったのです。このような経緯もあり、フィクションとしていとうさん自身が“語る”ことを選んだ『想像ラジオ』と対になるように、ノンフィクションとしていとうさんが“聴く”ことに専念した『福島モノローグ』が生まれたのでした。


オンラインでの対話の様子

歌が伝える「人生のひだ」 語りの「ライブ感」

ラジオ下神白、並びにそこから派生した伴奏型支援バンド(BSB)での活動は、住民さんの語りを「歌」とセットで伝えることに注力してきました。今回、BSBがバック演奏し、住民さん自らが歌う「メモリーソング」のいくつかを、いとうさんに聴いていただきました。「語りだけだと説明として受け止めてしまうところもあるが、歌が入るとパッションが伝わる。全然違う次元に言葉が行く」と語り、「その人の人生のひだが伝わる」と表現されました。
ここで詩織さんが『宗右衛門町ブルース』を歌い上げた、団地3号棟住民で大熊町出身の小泉いみこさん(参照:第2回オンライン報奏会レポート)が団地に移り住んでこられた6年前の状況を語ります。「当時は、旦那さんの介護で大変で、集会場に来ても下を向いて一歩後ろに下がっているような人だったけど、ほかの住民さんからカラオケに誘われて徐々に元気になって」。現在の元気はつらつに語り、歌ういみ子さんからは想像できない姿ですが、この変化のエピソードを聞いたいとうさんは、なおのこと歌に対する感動が深まったと言います。つまり、「語り」があることによって「歌」が生き、「歌」があることによって「語り」も生まれてくる。歌とセットで語りを受け取ることは、その人の「人生のひだ」をありありと伝える表現になるのではないか、と筆者も確信をより深めました。

話題は、歌から語りの内容そのものまでに及びました。筆者が住民さんの語りを聞くためにいつも大切にしてきたこと。それは、語りの「ライブ感」です。住民さんの語りは理路整然とまとまったものではなく、ときにあっちに、ときにそっちにと時系列を優に飛び越え、ときに記憶の迷路に入り込みます。そのプロセスにおいて住民さんは「被災者」でなく、たった一人の「〇〇さん」としての語りへと近づいてゆく。こちらが想定していた郷土愛的なイメージをときに崩し、一人ひとりまったく違うまちに対する思いを持っているという、よく考えれば当たり前のことに辿り着くのです。そのことについていとうさんは、「(インタビューする側に)“わかりやすくされちゃう”ことが、(取材を受ける側が)自分が尊ばれていないと感じるのではないかという視点がとても大切」と語ります。いろいろ語りだすうちに思い出す、話があちこちに行く。でも、取材では事実を伝えることよりもそちらの方が大切だと。なぜなら「俺はジャーナリストじゃない。作家だから」。「人間がバラバラに思っていることを、そのよさを俺ならまとめられる」といういとうさんの姿勢は、表現者としてどう人に寄り添うかという大切なメッセージが凝縮されていると、筆者は受け止めました。

「非当事者」として向き合うこと

後半は、筆者が団地に通いながらずっと抱えてきた「揺らぎ」について紹介しました。表現者として、被災のような辛い体験をされた方々と向き合う際に、「支援」という要素を大切にしながらも、一方で住民さんとともに音楽を通じて交流を深めることを「楽しい」と思うこと、また「自分も住民さんに感性を耕してもらって、表現の糧にしている」という感覚が強くあり、それはエゴなのだろうか。「エゴだ」と周りから言われば、反論できないのではないか、というものです。
この「非当事者」として「表現」を持ち込むことの悩みについていとうさんは、被災地においても子どもが生まれるなど、非当事者でありながら当事者性を背負わされる新しい世代が生まれていることを指摘。だからこそ非当事者であってもいいという開放性が必要だと語ります。そのうえで、「100%の正しさはない。僕たちは神様ではない。みんな人間。だから当事者には当事者の限界があるし、非当事者には非当事者の限界がある。その限界を差し出し合ってこそ現場が生まれる」と語りました。戦争体験の語り継ぎにしても当事者はどんどんこの世から姿を消してゆく。だからこそ、非当事者の出番もある、と。

いとうさんは当事者はもちろんのこと、ボランティア、学者、メディア関係者、政治家などさまざまな人とともに構築する「被災学」を立ち上げるべきだと語ります。災害の体験を物理的な生活面はもちろんのこと、メンタル面、支援に必要なあらゆるケースをつぶさに検証し、その知見を全人類に生かしてゆく学問。この被災学に必要なことは、あらゆる立場の人が専門性を差し出し合うことだと、筆者もこころから思いました。きっとそこには、音楽や文学や舞台芸術など、さまざまな表現に携わる人たちの知見も生かされるはず。これはなかなか大きなビジョンですが、とにかく「トライし続けることが大切」といとうさんは最後に語ります。
コロナ禍で誰もが経験したことのない日常を送るなか、正解がない時代に置かれていることを前提に失敗を恐れずトライし続けること。全3回のオンライン報奏会も初めて尽くしの企画でしたが、この経験も自らに刻みながら、これからも下神白団地の方々とともに、「表現・想像力・支援」をテーマに活動して参ります。ありがとうございました!

(執筆:アサダワタル)

連載東北から
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