Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

50キロ

なかの

当時高校生だった私は、原発から直線距離で50キロの街に住んでいた。3月12日は前日の猛吹雪とは打って変わった穏やかな日差しで、明るい部屋に流れる爆発事故の中継映像がやけに現実味がなかった。この空に何か危険なものが漂っていると言われても、ピンとこなかった。

原発近くの街は避難指示が出た。30キロまでの家は外に出ないように、と決まったらしい。あと20キロの差は遠いのか近いのか、分からなかった。家族で相談して、子どもたちだけで東京に自主避難することになった。私が一番年上だからしっかりしないと。これは遠足じゃない、避難なんだ。そう意識していないと、故郷から離れる自分が許せない気がした。

東京の受け入れ先は目一杯、私たちを気遣ってくれた。でも、テレビで繰り返し流れる爆発の映像を見る度に「なぜ」という気持ちになった。

なぜあの美しい風景を簡単に汚染されたと表現できるのか。なぜ苦しい思いをしているはずの家族と一緒にいられないのか。買い物に行った品薄のスーパーに福島県産の野菜だけ積まれているのはなぜ? 近所の人にチラチラ見られるのはなぜ? なぜ、ここの人たちはこんなにもいつも通りに過ごしているの?

1年ほどにも感じた2カ月。東京から戻った後、これから除染作業されるという実家の庭先で空を見上げ、大きく息を吸い込んでみた。やっぱり何も変わってなかった。

自己紹介や手記の背景

あの時感じたひとりぼっちの気持ち、どこにも向けられない憤りが私の原動力になっていると、今では思います。そして、「遠く」とか、「自分とは関わりがないと思っている人やものごと」をコロナ禍で再び意識するようになりました。その気づきの原点を記しておきたくて。

50キロ

なかの

自己紹介や手記の背景

あの時感じたひとりぼっちの気持ち、どこにも向けられない憤りが私の原動力になっていると、今では思います。そして、「遠く」とか、「自分とは関わりがないと思っている人やものごと」をコロナ禍で再び意識するようになりました。その気づきの原点を記しておきたくて。

連載東北から
の便り