Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

東北の伴走者

echelon

その時私は東京にいて、大学生だった。

卒業まで残り1週間の午後だった。卒論も終え、宅配業で夜勤のアルバイトをしていた私は、その昼間は眠っていた。その頃家族と不仲で、卒業しても一人暮らしを続けられるだけの貯金をしたかったからだった。
 
不意に揺れた感覚がして目を覚ました。地震だ、と思った。それでも小さな地震は度々あることなので気に留めなかった。それよりバイトに遅れそうなことが気にかかった。私は支度をして、山手線まで歩いていった。
 
おかしいと気づいたのは駅についてからだった。人だかりができていて、バスもタクシーも使えなかった。携帯で現状を把握しようとしても、情報が錯綜していたのか上手くいかない。周りの人に聞いて、大地震があったらしいことを知る。ただ、どこで、どんな規模かは分からなかった。
 
その日は結局バイト先に辿り着けず、帰宅した。家に帰ると、当時家族で唯一連絡をとっていた父から電話があった。そこで東北で大きな地震があったことを知った。
 
その後は絵に描いたような非常事態だった。大学の卒業式は中止になり、買い占めが起こり、大手銀行のATMは義援金を大量に詰め込まれてしばらく停止した。なし崩しにフリーターになった私のアパートにも、被災者が身を寄せたと聞いた。

地震の直後に風呂なし、トイレ共同の古アパートに引っ越し、派遣で食いつないでいた私は、僅かな寄付をするのがやっとだった。

それでも、何か大変なことが起こったことは分かった。怒られるかもしれないが、私は家族と絶縁状態で食うや食わずだった自分の苦労と重ねて一緒に頑張ろうね、と被災した方々にシンパシーを感じていた。
 
しかしその後、東北でインフラなどの復興が進む一方、私の生活はますます困窮していった。恥ずかしい話だが、所持金200円で生活保護を受けることになったりした。生活保護のおかげで人並みに生活ができるようになり、初めにしたことは、東北への支援だった。本当か、と思われるかもしれないが本当だ。

ネットで漁師の方々が漁をするのに浮きが足りないと知って代理で購入したり、大槌の刺し子Tシャツを購入したりした。生活保護の身で、自分の生活を再建すべき当時の私が何を考えていたのかよく分からない。ただ、自分にも何かできると思いたかったのは、よく覚えている。

それから10年が経ち、私の生活も変化した。まず、家族と和解し国家公務員になった。勤務地は偶然にも、近々南海トラフ地震が起こると言われている四国だ。私は新人研修で言われた言葉を思い出し、身を引き締める。それは「東日本大震災のような被害を少しでも減らすのがあなた達の役目です」というものだ。

東北への支援は今でも続けている。それは、10年前の3月11日に始まった、困っている人がいる、助けたい、という小さな思いが、私とここまで伴走してくれたように思うからだ。

自己紹介や手記の背景

人生が上手くいっておらず辛かった頃、東日本大震災が起きました。不思議とこの出来事がお前も頑張れ、と励ましてくれたような気がします。僅かな力ですが、これからも支援を続けていきます。

東北の伴走者

echelon

自己紹介や手記の背景

人生が上手くいっておらず辛かった頃、東日本大震災が起きました。不思議とこの出来事がお前も頑張れ、と励ましてくれたような気がします。僅かな力ですが、これからも支援を続けていきます。

朗読

朗読:上蓑佳代

選考委員のコメント

「人生がうまくいっておらず辛かった頃、東日本大震災が起きました。不思議とこの出来事が、お前も頑張れ、と励ましてくれたような気がします」……筆者は「あとがき」のなかで、こう述べている。
あの震災というおそろしい破壊が、一人の人間の心の再生をもたらしてくれたーーそれを知るのは、なんとうれしく、ありがたく思われることか。わたしは涙がこぼれた。がんばって走りつづけてください、と、思わず応援の声を挙げていた(小野和子)。

連載東北から
の便り