2020
10月
釜石市
大町
2020年9月24日 釜石市大町
2011年3月13日
新しい写真には、右の端にTETTO(テットと読む、釜石市民ホールの愛称)が写っています。
3年前に完成したんです。
エントランスあたりの角地に、震災前はビルが建ってて、一階にパン屋さんがありました。
移動販売がメインだから、早く店に行かないと売り切れてるという、、。
割り箸にささったウィンナーにケチャップが塗られたパン、大好きでした。
高校生の時、おやつ代わりによく食べてました。
みんなよく行ってたパン屋さんでした。
多くの建物はそのまま残ってるから、見た目はそれほど変わっていません。
アーケードがなくなったくらいかなって、地元の人はよく言います。
だけど、亡くなったひとがいて、移ったひとがいて、やってきた人がいて、、、。
震災前と比べると、中身はかなり変わっています。
新しさと懐かしさが混ざってる感じがします。
話し始めると、いろいろ、思い出してきますね。
*
古い写真には、ひっくり返った自動車や自衛隊員の方々が写っています。
津波はアーケードの高さまで来ました。
翌日には自衛隊の皆さんは釜石に入っていたと思います。
救命や遺体の収容などにあたられていました。
撮影日の3月13日には街中はもう歩けるようになっていました。
瓦礫の中に小さい子どもを見つけました。
よくみると、チョウザメでした。
海で養殖していたのが、街まで流されてきたんですね。
この写真は、市街地から海側に向かわれているところかな。
すれ違ったら「おつかれさまです」と言うようにしていたけど、海から街に帰ってこられる時は、誰も下を向いていて、一言もしゃべらない。
声をかけられるような感じじゃなかったのを覚えています。
しばらくすると、でっかいスズメ、でっかいハエが街にいっぱい飛んでいました。
*
地震の時は、この撮影場所からすぐの「のぞみ病院」にいました。
しばらくしてから、病院から海側に歩いて5分くらいのところにある妻の勤務先の保育園に向いました。
その時はもうみんな山側の薬師公園に避難したとのことだったので、病院に戻りました。
波が来ていることがわかっていたので、冷静に行動していました。
数年前までこの病院に事務として勤務していたので、勝手はわかっていました。
使っていないカーテンや毛布の保管場所に、元部下を連れて行きました。
自分のいたフロアに、ひとつだけ携帯ラジオがありました。
みんなに聞こえるように流しておいたんだけど、夜は切るんですね。
そしたら、一人の男性が、身内の安否が心配だからラジオを夜通し聴かせてほしいって。
朝になったら返してくださいねって伝えて、渡しました。
翌朝、「ありがとうございました」とひと言だけ言って、その男性はラジオを元の場所にそっと戻しました。
なんて声をかけるべきか、わかりませんでした。
話し手|川原康信、上野育恵(復興カメラ)
きき手|松本 篤(AHA!)
NPO法人@リアスNPOサポートセンター
2003年商店街活性化の一環として、岩手県釜石市にて設立。自分たちの手で地域が抱える問題を解決するために、住民、行政、地元企業、NPOなどが連携するプラットフォームづくりをサポートしている。震災以降の写真を残す『復興カメラ』などのプロジェクトを行っている。
AHA!
2005年、NPO法人記録と表現とメディアのための組織(remo)を母体に、大阪市にて設立。8ミリフィルム、家族アルバム、戦時中の慰問文など、さまざまな「市井の人びとの記録」に着目したアーカイブづくりを行う。キャッチフレーズは、「A Happy Birthday to Your Little Record!——小さな記録の誕生日を祝おう」。