2020
11
11月2日-8日
清水チナツ(インディペンデント・キュレーター/PUMPQUAKES)
11月2日(月)
天気|快晴
場所|自宅(オアハカ)、オアハカ空港
メキシコ南部に位置するオアハカでの生活も8ヶ月目に入ろうとしている。3月12日にオアハカ入りして間もなく、パンデミックの中心がアメリカ大陸に移り、いまも第一波を脱していない。わたしの暮らすオアハカのセントロ地区は、9月に入るまで街に人の姿がなかったが、その後、営業を再開するお店が増え、最近では海外からの観光客の姿もよく見かけるようになった。
今日は「死者の日」で、例年であればパレードやイベントが街中でひらかれ、1年のうちで一番の盛り上がりをみせるそうだ。しかし、今年はパレードどころか、墓地への訪問も禁止されている。それでも、マリーゴールドや鶏頭で飾り付けた色鮮やかな大きな祭壇は、どの家庭でもつくられた。
数日前、花の摘み取りを手伝い分けてもらったマリーゴールドと鶏頭。友人が連れて行ってくれた家族経営のパン屋さんで焼き上げられた「死者の日のパン」、近所のメルカド(市場)で買い求めたガイコツの砂糖菓子とパペルピカド(切り絵)で飾り付けをし、街の写真屋さんでプリントした祖父母の写真を並べて、自宅に小さな祭壇をこしらえ、蝋燭を灯した。
メキシコで「死者の日」は、あの世とこの世の間に橋が架かり、死者たちがこちらの世界へやって来る日。日本のお盆と似ているけれど、この日が近づくにつれ、人々は浮き足立ち、わくわくしている感じが伝わってくる。祭壇に飾る写真は、死者の国のパスポートのように働くそうで、死者へ「あなたのことを覚えていますよ、想っていますよ」という報せになる。しかし、写真が飾られなければ、その存在を覚えている者が誰もいなくなったことを意味し、「第二の死」つまりは忘却の淵へ消えていくことになるそうだ。
20時、ソウルからアーティストの友人パク・ドヨンを迎えるために空港へ。出口には、友人や家族を迎えるために集まった人々が、文字通り首を長くして通路の奥を見つめていた。出てきた人々はお互いマスク姿で再会を喜び、ハグするかどうか躊躇しながら、それでもやっぱり抱き合っていた。
ソウルからダラス経由で丸3日ほどかけて移動してきたドヨンを歓待すべくタコス屋へ。すると、その隣にあるアーティストコレクティブが運営する版画工房からアーティストたちが出てきて、メスカルを振る舞ってくれた。ドヨンの顔から笑顔がこぼれ、「オアハカの人たちは余裕があるなぁ」と一言。
11月3日(火)
天気|快晴
場所|自宅
自宅の一角を家具で仕切り、ドヨン用のスペースをこしらえていたけれど、持参したテントをテラスにひろげ、「ここがいい」とドヨンは言う。乾季になったので雨こそ降らないが、日中は30℃前後、朝夕は10℃前後で寒暖差はなかなか。しかし、アクティビズムの現場、つまりは路上などでも寝泊まりしてきたドヨンにとっては、現在のオアハカの気候はテント泊に一番適していると言ってうれしそう。自宅のテラスからは古代遺跡モンテ・アルバンが見渡せる。テラスを掃き、蜘蛛の巣がかかっていたので私が手をのばすと、とっさにドヨンが「そのままでいいよ。蜘蛛はほかの虫とってくれるから」と言った。わたしが磨き直さないといけないのはこういう感覚だとつくづく思う。
そういえば、日本のニュースで、「コロナで修学旅行が中止になった学生たちが、校庭でテント泊の修学旅行を自分たちで企画し実施した」とあった。災厄は場所も時も選ばずに起こるし、それはこれからもきっと変わらない。そんなとき、こんなふうにしなやかに動けることは、すばらしいことだと思う。
オアハカでは自動車も洗濯機もない生活なので、なにかと時間がかかる。飲み水も20ℓのボトルを買ってこないといけない。インターネットでの買い物もほぼ不可能なので、基本的にすべての用事は足で。毎日、生活の用事だけで10km近くを歩いている。そしてローカルニュースは、街を歩いてしか得ることができない。歩いた分だけ、情報が入ってくるし、発見がある。パソコンの前にいるより身体を動かすことが必然的に多くなり、握力や健脚こそ、いま一番欲しいものになった。
11月4日(水)
天気|快晴
場所|自宅、アーティストの工房
自宅でリサーチのための本を読んだり、インタビューの準備をしたりして過ごす。チャプリン(バッタの揚げ物)がたくさん手に入ったからと連絡をもらい、アーティストの家へ出かける。オアハカに来てから、近隣の人たちから料理や季節のものをたくさん分けてもらっている。そのどれもが、レストランなどでは食べられない家庭料理ばかりで、何千年も昔(なかには紀元前1200年頃の古代メキシコ時代)からつくり続けられているものもあったりするから驚く。
そのあと、若いアーティストが新しい版画作品をつくっていると連絡をくれたので、工房に行き見せてもらう。
夜は、アーティストたちとドヨンとで屋台のトラユーダ(オアハカ風ピザみたいな食べ物)を食べに行く。地元の人に人気のそこは、直径約50cmもあるトルティーヤにラード、黒豆のペースト、チーズがのせられ、パタンとふたつにたたんだものを炭火で焼く。そこだけ明るく電灯が光る通りには、近隣からたくさんの人が集まっていた。バイクで来た人は、シートをテーブルがわりに。わたしたちも車のボンネットをテーブルにして熱々の大きなトラユーダを頬張る。するとどこからともなく、アコーディオン弾きの人がやってきて演奏を始める。常設のものはなにもなく、その時間だけそこに現れては消えるものばかり。路上で舞台の一作品を見ているような気持ちになる。なんだろう、この完璧さは。
11月5日(木)
天気|快晴
場所|オアハカ州立自治ベニートフアレス大学
ビザのことで相談があり、オアハカ州立自治ベニートフアレス大学を訪れた。パンデミックの影響で校舎は3月からずっと閉じられたまま、現在も授業はオンラインでおこなわれている。敷地の中の雑草は人の姿を隠すほど伸びていて、6月23日に起きた地震(M7.4)で亀裂が入り崩れ落ちた校舎の土塀や、割れたガラス戸などの横を通り過ぎながら、校長先生が「遺跡のようでしょう」と冗談まじりに言う。
郵便局に荷物の受け取りへ。9月末に友人のアーティスト志賀理江子が宮城から送ってくれたEMSがようやく届いた。長い海外生活の経験がある彼女は、わたしのこちらでの生活を気にかけ、電話をくれたり、食品などを送ってくれたりする。お煎餅やふりかけ、鰹節などの乾物と一緒に、手づくりのワンピースやバックと本が入っていた。身体が弱っているとき、馴染みの味は救いになる。すぐに食べたい気持ちをおさえ、大事に棚へしまった。
晩ご飯用に近所の日用品店へ卵を買いにいく。ミセラニアと呼ばれるこの種の日用品店はオアハカの街中にあり、その数はコンビニより圧倒的に多い。卵やクッキー、トイレットペーパーから生理用品までなんでも1個から売ってくれる。市場の野菜や果物、お肉などもすべて量り売りで、1ダースや1パックとかの単位に縛られることなく、必要な量を必要な分だけ買うことができる。主食のトルティーヤを売るお店も街中どこにでもあり、価格が一律に決められていて手に入り易い。
11月6日(金)
天気|快晴
場所|自宅、近所のタコス屋
アメリカの大統領選の結果を、みんなが気にしている。通りの壁画のリサーチに出向くと、トランプ政権を批判するものが増えている。映像記録を見直したり執筆作業をしたりして、お昼ご飯は、屋台のタコス屋さんへ。路の段差に腰掛けてタコスを頬張っていると、若いアーティストが通りかかる。昨日までアフリカ系メキシコ人が多く暮らすオアハカ南部のピノテパナシオナルへ壁画を描きに行っていたそうで、「また工房においで」と声をかけてくれた。
わたしの暮らすセントロ地区は約2km四方の街で、通りに出るとかならず誰かに会う。都会でも田舎でもないその中間にあるような街の規模は仙台にも似ている。インターネットショッピングなどがままならず、飲食も屋外でおこなうことが多いこの街は、日用品の買い出しや食事をするだけで誰かに会い、ちょっとした会話が始まる。お互いに距離はとっているものの食事の時だけマスクを外すので、顔が見えて、それだけですこしほっとする。
オアハカに着いたばかりの頃、たまに人に会ってもマスクをしていて顔の半分が隠れているし、声もくぐもって聞こえづらく、匂いも伝わってこないので、なんだか水中にいるような気持ちで不安だったことが思い出される。それでも、こうして通りで顔を合わせて挨拶したり、近況を伝え合ううちに関係性は少しずつできてきた。まったく知らない街で暮らし始めたのは東京、仙台につづき3度目だけれど、通りで名前を呼ばれるというのは、たとえかりそめでも「この街の一人になった」と実感される瞬間である。
11月7日(土)
天気|快晴
場所|ポチョテ市場
今朝は週末だけひらく市場(メルカド)へ食材を求めに出かける。ジグザグと日陰を探しながら街を北上し、40分ほど歩くと市場に着く。近郊の農家の人たちが週末だけ街に出てきて開く市場だ。赤っぽい土の上に木製の小屋が立ち並び、新鮮な野菜や卵、チーズ、キノコ、珈琲、メスカルなどを販売している。
「このハーブはどんな料理に使うのか」とか「旬の野菜のおすすめの調理法」など、細やかに教えてくれ、市場は暮らしの知恵の受け渡しの場所でもある。この市場まで来る途中にも、ふたつ市場がある。つまりは家から歩いていける範囲に、みんな馴染みの市場をそれぞれに持っているということ。絞めたばかりの鶏を1羽分けてもらい、ニンニクやショウガ、ネギなどを買う。
今夜はドヨンが腕をふるって韓国の鶏肉のスープをつくってくれることになった。ガスコンロの火が弱いので、テラスに炭焼き台を出し、火を起こす。そこにニンニクをたくさん詰めた鶏一羽を鍋に入れ、水をひたひたに入れて、じっくり火を通していく。段ボールの切れ端で炭に風を送りながら、いろんな話をした。気がつくと陽は落ちて、寒くなってきた。
声をかけていたオアハカのアーティストたちが集まってくれ、みんなでドヨンの熱いスープを食べる。お互いの文化を知るとき、「料理」はひとつの言語になる。目、鼻、舌を使いながらその文化に触れ、会話は自然とその料理を教えてくれた人(家族)や、風土の話になる。スペイン語、サポテコ語、日本語、韓国語、英語などさまざまな言語が行き交い、頭がショートしそうになる。ロックダウン以降、自宅での食事と会話が最大の娯楽になって久しい。
11月8日(日)
天気|快晴
場所|自宅、ポポカテペトル通り
午前中、オアハカのアーティストの友人がマウンテンバイクでうちにやってきた。ドヨンに自転車のメンテナンス方法を教えてもらう約束をしていたそうだ。南向きのテラスの陽は強く、汗びっしょりになりながら、オイルをさし、パーツごとの汚れを取り除く。この場所で手に入る道具で、ドヨンは「方法」をカスタマイズしていく。みなが基礎的な修理の技術や道具の知識を持っているので、話が早い。そういえば、わたしもオアハカでの生活で手をよく使うようになった。
午後は、火山の名前がつく「ポポカテペトル」という通りにある伝統料理が得意なお家に招いてもらい、マグマのように熱いモーレ(カカオを使った伝統的なソース)をご馳走になる。
このモーレづくりも、おそろしく手間がかかる。数種類の唐辛子を炭火でトーストするのだけれど、種も火にかけるので、南蛮燻しの拷問状態になる。そこにラードやニンニク、ハーブ、アーモンド、カカオなどたくさんの材料を加えながら、舟のように大きな鍋を、オールのような木製のヘラでゆっくりゆっくりかき混ぜる。作業の合間に、おばあさんが火の神様へメスカルを捧げたり、味見をしにきたりする。一人では出来ない料理で、みんなで交互に役割を交換しながらつくられる。オアハカでは、伝統料理が材料や道具(石臼や土器)も同じままに現在でもつくられているけれど、それを効率化したり単純化したりしないのは、時間がかかること、みんなの手を介してでしか出来ないことのなかに歓びを見いだしているからだと感じることがよくある。面倒くさがりながら、愉しそうなのだ。
ドヨンが初日に口にした「オアハカの人たちには余裕があるなぁ」という言葉が何度も頭に浮かぶ。経済的、物質的にはけして豊かとは言いがたいし、パンデミックの影響は計り知れない。しかし、精神的な安定感がここにはあるし、自分たちの手で暮らしを立ち上げる技術をみなが持っている。電気や水道、インターネットなどのインフラが不安定な分、人やコミュニティの関係性こそが危機を下支えする一番大事なインフラストラクチャー(下部構造)になっている。
今日もエンジンの故障で動かなくなった車を、道行く人たちがわらわらと集まり坂の上まで押して上げて、ちりぢりに消えていった。一日があっという間に終わる。暮らすだけで忙しいけれど、なぜか一日の終わりはいつも満たされて、蚊帳のなかで眠りにつく。
この感じは、あの時と同じ。2011年の震災の後、仙台にも確かにこんな日々があった。あの頃の空気が、一時的でなく息づいているのはなぜなのか。それをこの街で考えている。
2020
6
2020
7
2020
8
2020
9
2020
10
2020
11
2020
12
2021
1
2021
2
2021
3