2021
2
2月8日-14日
大小島真木(画家/アーティスト)
2月8日(月)
天気|晴れ時々曇り
場所|東久留米
東京の端っこにある東久留米市は、埼玉の新座市と隣接した、およそ東京らしさのない町だ。落合川、黒目川、立野川いう三つの川の源流が湧くこの静かな町に、私はもう34年も生きている。父母もまた東久留米市に住んでいるが、今は一緒には暮らしていない。私は5年前に、生家から自転車で5分ほどのもともとは理容室だったという小さな一軒家を、アトリエ兼住居として購入したのだ。
その家は薄桃色の外壁の築60年の古い木造建築で、二階の床にペンを置けばものすごい勢いで部屋の端から端へと転がっていく。制作の合間に少しずつ、ほぼDIYでリノベーションを続けてきたのだが、ある時、知り合いの大工さんに壁を開けてもらうとそこは竹格子になっていて、隙間に大量の土と藁が敷き詰められていた。一昔前の天然の断熱材だそうだ。正直なところ、この家の保温性は決して高いとはいえないが、土に守られて暮らしていると思うと、心がほっこりと温まる。
今朝は冷蔵庫を開けると、叔父が年始に届けてくれたリンゴと、先週買ったバナナが痛みはじめていたので、リンゴとバナナのパウンドケーキを作ることにした。料理中はいつもiTunesかYouTubeをラジオ代わりに流している。最近は音楽ならティグラン・ハマシアン、動画ならコンポスト関連の動画を流すことが多い。今、私は自宅でのコンポスト作りを密かに計画しているのだ。
コンポストと一口に言っても種類はいくつかある。ミミズか、回転式か、土中式か、果たしてどの方式を試してみようかと、解説動画を比較しながら検討している。とはいえ、コンポストを始めたいと思ったのはもう数年前だ。ずっとやりたいと思いながらも、制作のための移動が多い日々の中で後回しにし続けてきてしまった。父母が手掛けている市民農園のコンポストに生ゴミを入れに行くたび、早く自分でも始めなければと気をせかしてきたが、今年こそは絶対に始めよう。そう昨年の今頃も思っていた気がするが。
ケーキをオーブンに入れたところで、アトリエの床に1.7m×1.1mの綿布を広げた。油絵を描くのだ。大学卒業後はずっとアクリルばかりを使ってきた私にとって実に12年ぶりの油彩である。なぜ久しぶりに油彩をやろうと思ったかというと、絵を生涯の趣味としていた母の友人から油絵具を譲り受けたからだ。その方は昨年、病のためお亡くなりになってしまった。
さて、何を描こう。2月にしてはまろやかな日差しがカーテンの隙間から溢れていた。
2月9日(火)
天気|晴れ
場所|東久留米→長野→戸隠
朝、近所のレンタカー屋で借りた真っ赤な軽自動車に乗り込むと、長野県長野市へと向かった。途中、高速のサービスエリアで朝食代わりのソフトクリームを食べる。私は昔からソフトクリームと書かれたのぼりを見かけると、「あ、ソフトクリームだ」と、それを食べたい気分ではなくとも声に出してしまうのだ。連れは、ご当地名物らしい揚げ芋に甘い味噌が塗られた奇妙な物体を食べている。道は空いているので、午前中には目的地に着けそうだった。
長野県信濃美術館に行くのは初めてだった。現在は改装中であり、今日は夏に行われるリニューアル展に向けた会場の下見と打ち合わせを兼ねての訪問だった。真新しい美術館に入るとおのずと気分が昂揚する。併設された東山魁夷館と本館をつなぐ通路からは、常設予定らしい中谷芙二子さんの《霧の彫刻》のための水盤が一望できた。「冬季は凍っちゃう日もあると思うけど」と学芸員さんは言う。「凍った霧の彫刻」と口ずさみ、その矛盾した言葉の並びに、なんだか少し可笑しくなる。
打ち合わせを終え、せっかくだからとすぐ近くの善光寺でお戒壇巡りをした。世界には様々な形で残された「死と再生」の儀式の伝統がある。別名「胎内巡り」とも呼ばれるお戒壇巡りもまた、そうした伝統儀礼の一つだろう。一寸先も見えないほどの暗闇の戒壇は、さながら此岸と彼岸の端境であり、そこに立ち入ることは小さな死を意味し、その暗闇を手探りで通り抜けることで、再びこの世へと生まれ直していく。戒壇の手すりに触れると、そのひんやりした感触がにわかに身体から熱を奪っていった。その感覚が恐ろしくも、どこか心地よかった。
その後、学芸員さんの案内のもと戸隠へ向かった。途中「七曲り」と呼ばれる、あたかも人間の小腸のような形の、180度のカーブが連続する急勾配の道を通った。さしずめ異界へと向かう地獄道のようでもあったが、道を抜けた先にあったのは異界ではなく、白銀の雪景色だった。
戸隠神社の閑雅な鳥居を横目に、廃校になった小学校校舎をそのまま利用したという戸隠地質化石博物館へ赴く。なんでも、ここは日本でも有数の骨格標本の宝庫らしい。骨は私の作品の主要なモチーフの一つで、これまでも自身でスナメリの骨格標本を作ってみるなどと骨愛にはそれなりに自信があったのだが、本館館長の田辺さんは私など足元にも及ばない、正真正銘、偏執的なまでの骨ラバーだった。
博物館の玄関口ではいきなり巨大なミンククジラの化石が出迎えてくれた。実は内陸地である長野ではクジラの化石がしばしば出土している。ほんの500万年前まで、戸隠山一帯は海だったのだ。
地理的な位置関係から、長野は「日本のへそ」とも呼ばれている。その「へそ」では、時を超えて、海と土が交わっている。そう思うと、海とはどこか生命を育む羊水のようでもある。期せずして日本のへその緒を辿るような一日となった。
2月10日(水)
天気|晴れ
場所|東久留米
今日はアトリエで陶器制作を行うことにした。
絵画作品を中心としてきた私が陶器制作を始めたのは1年半ほど前だ。特に2020年は、世界がコロナ禍に揺れている中、私は湯河原にあるクレアーレ熱海ゆがわら工房に数ヶ月ひきこもり、集中的に陶器制作を行うことができた。土のひんやりとした感触を手のひらに感じていると、世に氾濫する情報の混沌から束の間、逃れられる。そうしてつくり出された陶器群は、昨年末に上野駅コンコースで展示した作品《土のアゴラ》へと結実した。
陶器とはそもそも、土を捏ね、火で生成し、鉱物を元にした釉薬によって彩られるものだ。その偶然性にみちみちた、だけど技術によって裏打ちされた複雑な制作プロセスは、あたかもかつての錬金術のようであり、それは芸術がいまだ今のような形ではなかった時代、芸術も魔術も科学も全てが渾然一体となったまま人々の暮らしの中に溶け込んでいた時代へと、想像力を飛翔させてくれる。
そんなことを思いながら粘土を捏ねていたら、実家から母が煮物を差し入れしてくれた。タッパーごとそれを温め、昨年末に陶芸家の友人である田村一さんから購入したお皿によそった。鯖とじゃが芋と木綿豆腐を、生姜でじっくりと煮込んだ、ありもののブリコラージュ。新聞記者をしていて多忙だった母は、冷蔵庫のありものでさっと料理を作るのがとてもうまい。私は芸術家の娘だ。
夜はオンラインの飲み会を小一時間ほど、その後、「art for all」のZoomミーティングに参加した。
2月11日(木・祝)
天気|晴れ
場所|高尾→秋津→東久留米
朝、八王子へと向かった。高尾山の麓に暮らす友人から味噌づくりに誘われたのだ。味噌の製造工程はいたってシンプルである。茹でた大豆を摺り潰し、米麹や麦麹、塩と練り合わせ、それをホーローの保存容器に移したら、あとは日の当たらない場所に置いて、「発酵」という天然の魔術に委ねていく。そうしておけば、およそ半年から1年後にはコクのある味噌汁として食卓を彩ってくれる。
テーブルいっぱいに広げられた熱々の大豆の粒を手のひらで潰していると、友人の一人が、「いい発酵を起こすためには手に付着してる細菌もまた大事なんだよね」と言った。その言葉が、なんだかとても新鮮で、可笑しいくて、笑ってしまった。
言うまでもなく、今日、世界で最も恐れられ、警戒されているのは、ウイルスや細菌などの目には見えない微小な存在たちだ。いまやほとんどの施設で義務付けられている入場に際しての手の消毒は、あたかも現代に蘇った呪術的儀礼のようでさえある。そこで行われていることは、私たちから私たちの手のひらに付着した招かれざる客たちを選別し、そして、殲滅(せんめつ)することだ。
しかし、ここではその招かれざる客たちが歓迎されている。むしろ主賓と言ってもいいのかもしれない。なんせ彼らがいなければ味噌はつくれないのだから。私たちは普段、彼らに怯え、彼らを遠ざけながら、一方で彼らによって生まれたものを「美味しい」と言って享受しているのだ。その矛盾に人間らしい滑稽さを感じて、つい笑わずにはいられなかった。
『発酵文化人類学』の中で著者の小倉ヒラクさんが、目には見えない不思議な生き物たちの働きを自分たちの文化と暮らしに埋め込んでいった私たちの先祖に触れつつ、「ホモ・ファーメンタム(発酵するヒト)」という造語を提唱していた。小倉さんいわく、発酵技術とは「目に見えない微生物とのコミュニケーション」である。そう思うと、日常化した手の消毒やマスクの着用もまた同じく「目に見えない微生物とのコミュニケーション」のひとつの形だと言える。生かすか殺すか、歓迎するか追い出すか、の違い。願わくば、私たちのアートは、「消毒」ではなく「発酵」に関わる技術であって欲しいと思う。
米と麦、各4kgずつの味噌が入ったホーローをカートで引きながら、帰り道、秋津に寄って明日の朝食用のクロワッサンとカマンベールチーズ、あとギリシャヨーグルトを買った。パンもチーズもヨーグルトも「目に見えない微生物とのコミュニケーション」によってつくりだされたものだ。どうやら私は筋金入りのホモ・ファーメンタムのようである。
2月12日(金)
天気|晴れ時々曇り
場所|東久留米→三鷹
今日は朝から夕方まで、アトリエで作品制作をしていた。午前中は複数の生物種が絡まり合った心臓の陶器を、午後は月曜日に描き始めた油彩の続きを行なった。独特な油の匂いを感じながらのペインティングは久しぶりだ。もしかしたら新しいシリーズの一枚目になるかもしれないという予感がする。どんなシリーズにしよう。ぼんやりと「Holobiont(ホロビオント)」という言葉が脳裏に浮かんだ。
アトリエでの作業を終え、学芸員の友人が最近引っ越したばかりの小金井の家へと向かった。鱈と季節野菜の鍋をつつきながら、四方山話に花を咲かす。仕事の話やアートの話、というより、主に家をどう改装したいかについて、互いの願望を語り合った。ああ、時間が欲しい。思う存分、DIYがしたい。
そうそう、コンポストはミミズにすることに決めた。陶器制作においては微生物がいない土を使わざるを得ず、それは仕方がないことだけれど、私はそこにいいささか物足りなさを感じていた。コンポストでは実際に蠢(うごめ)くものたちと共にある、生きた土に触れてみたいと思ったのだ。 今年こそ始めると月曜日の日記に書いたところだが、その勢いに任せて、早速今日、コンポストキットを注文してしまった。
ミミズと一つ屋根の下に暮らしながら、食べ物が土の中で腐蝕し、堆肥になっていく過程を、日々見つめてみようと思う。「ヒューマン」の語源は腐植土を意味するラテン語の「フムス」だと聞く。これで私も少しはヒューマンに近づけるだろうか。
2月13日(土)
天気|晴れ
場所|初台→横浜→東久留米
今日は東京オペラシティ アートギャラリーで千葉正也さんの個展を観てから、神奈川県民ホールへと向かい、一柳慧さんの神奈川芸術文化財団芸術総監督就任20周年を記念するコンサートを鑑賞した。
中華街で翡翠(ひすい)色の小籠包を食べて数時間前に帰宅、それらの感想についてこの日記に綴ろうと机に向かったまさにその時(つまりさっき)、唐突にスマホから警報音が鳴り響いた。そしてまもなく、築60年の木造の我が家がぐわんぐわんと大きな弧を描くようにして、揺れた。急いでSNSを開くと、福島県や宮城県では震度6強を観測したようだった。どうやら津波の心配はないらしい。それを知り、ひとまずホッとした。
大きな地震が起こると、否応なく日本列島が四つのプレートの重なりの上にあるということを思い知らされる。私たち人間にとって大地は不動のもので、だからこそ土地は不動産とも言われるわけだけど、本当のところ、大地はずっと、これまでも絶え間なく動いてきた。ゆっくりと、大きく。時に激しく揺らぎながら。
震動の余韻に少し緊張した身体を感じながら、今、私は2011年の震災のことを思い出している。あの頃、私は都内でDTPのオペレーターのバイトをしていて、その勤務先の事務所であの地震に遭った。その夜は私も帰宅難民の一人となり、母の職場に身を寄せて一夜を明かした。
当時、私はちょうどインドのプロジェクトから帰国したばかりだった。インドでは停電が日常の一部で、人々は電気が突然来なくなることに慣れていた。滞在中も何度か停電になったことがあったが、誰一人として慌てたりはしていなかった。たとえば夜の停電でも、誰かがこともなげに灯したランプの下で、停電が明けるまでただのんびりと話をするだけだった。
日本では停電に慣れていないがゆえに、人々は一時的にでも電気を失うということを恐れ、不安を募らせずにいられない。当時は日本中が突然のビッグストップに狼狽えていた。目前に控えていた大学院の修了式も中止となった。当然、予定されていた修了制作展も中止となり、その片付けに大学を訪れた時に卒業証書を受け取って、私の大学院生活は終わった。
震災から1ヶ月が経ち、東日本への車道が開通された頃、遠藤一郎さんに声をかけてもらい、『未来へ号』で、何人かのアーティストたちと一緒に泥出しをしながら女川、気仙沼、石巻をまわる機会を得た。漁場が近かったエリアでは、袋詰めされた魚たちが内陸側に流れ込んでいて、私たちが行った頃にはすでに腐り出していた。土と、魚たちの死体と、崩壊した建物の瓦礫が混ざりあった泥を掬い、土嚢袋に詰め込んでいくという作業の中で、言葉にはし難い、複雑な思いを感じたことを覚えている。石巻では水の神に鎮魂を祈る獅子踊りを観た。海を畏れ、敬う人々がそこにはいた。
東京電力福島第一原子力発電所事故後、私はなかなか現地へ行くことができなかった。私がようやく警戒区域を訪れたのは、事故より8年後の2019年のことだった。 そこはいまだに2011年から時が止まっているかのようだった。いや、正確に言えば止まっていたのは人の時間だけだった。あたりには植物が無造作に繁茂し、かつてはいなかったであろう野生動物たちの姿もあった。もし世界から人が滅んでも、スピーシーズの時間は続いていくのだ。いつか必ず訪れるだろう未来の光景を目の当たりにした気がして、なぜだか少しだけ安堵した記憶がある。
そういえば、石巻ではさっこちゃんとも出会ったんだった。彼女は今、瀬戸内海の人口がわずか20人ほどの小さな島に住んでいる。家々も道路もめちゃくちゃにひっくり返っている中を、カスタネットとピアニカを演奏しながら二人で歩いた日のことを思い出す。あの震災から来月で10年。地球からすればまばたき1回分程度の短い時間かもしれないが、人間にとってはどうだろうか。二つの地震のあいだで、何が変わって、何が変わらなかったのだろうか。大地の節目に、過ぎ去りし時間を思った。
2月14日(日)
天気|晴れ
場所|東久留米
リレー日記の最終日。今日はオンラインで行われたマルチスピーシーズ人類学研究会のシンポジウムに参加した。テーマは「マタギ」で、人類学者の石倉敏明さんをはじめ、秋田県の根子集落のマタギの方々や、以前に私がプロジェクトで一緒になったことがあるアーティストの永沢碧衣さんが遠隔で登壇していた。
伝統的な狩猟の作法や、そこに関する儀礼などの話はとても興味深い。一般的に「狩り」というと、能動的に自らの手で獲物の命を仕留めにいくというイメージが強いが、マタギの信仰においては、「狩り」は同時に、山のカミから命の贈り物を与えられる受動的な行為でもある。その能動と受動の二重性こそがマタギとハンターを分かつ。それゆえマタギには皆、山に対して命の「借り」があり、そして、その「借り」があるからこそ、マタギは山を畏れ、敬う。「狩り」と「借り」。シンポジウムを聞きながら、私はおそらく偶然でしかないだろうその二つの同音異義語に思いを巡らせていた。
実は私も以前、秋田のマタギ集落として知られる上小阿仁の八木沢集落で滞在制作をしたことがある。集落の人たちと色々なことを語り合った中で、特に印象深く覚えているのは、やはり熊の話だ。彼らは「外から来た人は熊を見かけるとすぐに『熊が出た!』って騒いで通報するんだよ」と笑いながら話していた。彼ら山の麓に代々暮らしてきた人たちにとって、熊の存在はごくごく当たり前のものなのだという。
とはいえ、やはり熊と人は友達ではない。八木沢の森でテント生活をしながら作品を制作していたとき、森の奥で一匹の熊と出会ったことがある。その際、私は彼の存在に気づくなりその場に硬直し、動けなくなってしまった。鼻腔を刺す強烈なケモノ臭は、彼が異質な他者であるということをはっきりと私に知らせていた。それは熊がいない環境の中で熊を想像しているのとは明らかに違う体験だった。
ただ、だからこそ、熊との接点について、それまでになくリアルに思考させられた。そして、世界各地に伝わる、人と動物との交流を描いた神話や物語の存在理由が、少しだけ分かったような気がした。人間にとって彼らは絶対的に違う生き物で、そこには明らかに境界がある。だからこそ人は物語を編むことによって、その境界のあいだについて考えようとしてきたのではないか。そうすることで、異なるものたちとの接点を見出そうとしてきたのではないか。
夜、南瓜とブルーチーズのキッシュをオーブンで焼きながら、届いたばかりのキットを組み立て、そこに小さくて美しい無数のシマミミズたちを土と一緒に流し入れた。ミミズコンポストだ。霧吹きで水を掛けると、ピンクの身体をうねうねと蠢めかせている。生きている。「植物が生えている土壌は何度もミミズの体を通過してきたものであり、大地はミミズによって耕され、現在も耕され続けている」とダーウィンは言っていた。私とミミズとのあいだには悠久の土の物語があるのだ。その物語にはきっと微生物も参与している。無数のスピーシーズも参与している。樹や花々、石や鉄も参与している。もちろん私も、あなただって、参与している。
2020
6
2020
7
2020
8
2020
9
2020
10
2020
11
2020
12
2021
1
2021
2
2021
3