Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

はじめに

2011年6月28日。初めての東北出張で訪れた宮城県白石蔵王駅前のコンビニで『東日本大震災(*1) 復興支援地図』(昭文社、2011年)を買った。青森県から千葉県まで太平洋沿岸地域の地図が掲載された大判の冊子には、各地域の避難所や仮役所の位置、津波の浸水範囲などが記されていた。この地図を片手に東北の沿岸部を巡りはじめた。
ライトの消えた信号や曲がりくねったガードレール、道路の白線はかすれていた。夜は真っ暗になり、浸水して通れない道もあった。カーナビの地図は更新が間に合っていない。「あそこまで津波が来たんだ」。移動する車中から地図に示された浸水範囲を確かめる。目の前の風景には、ある瞬間から刻まれた境界線があった。

福島県飯舘村を訪れたのは、8月13日。車中でガイガーカウンターが鳴り響いていた。飯舘村は東京電力福島第一原子力発電所事故により、全村避難を強いられていた。いたるところに生活の痕跡はあるが、人の気配はほとんどない。
警察が通行止めを知らせる20km圏内の入口の道路沿いには鉢植えのヒマワリが並んでいた。当時はヒマワリに除染効果が期待されていた。車窓からは旺盛に繁茂する緑が広がる。一見、長閑(のどか)に思える風景も、震災以前を知る人々にすれば、人の手が入っていない残酷な風景だった。わたしたちは、震災以前の東北の風景を、ほとんど知らなかった。


2011年6月28日 福島県相馬郡新地町

「はじめまして、東京文化発信プロジェクト室の佐藤と申します。東京都の芸術文化による被災地支援事業の担当をしています。東京都は東日本大震災の発生を受け、さまざまな分野で東北の支援に取り組んでいます。たとえば警察や消防の方々がこちらに派遣されていたと思いますが、それと同様に芸術文化の分野で何らかの支援ができないかと、ここに来ています」

2011年3月の東日本大震災に対し、同年6月に東京都が『緊急対策2011』を策定。その一環として、『Art Support Tohoku-Tokyo(ASTT)』は7月に始動した。岩手県、宮城県、福島県を対象に、2009年から都内で事業を展開していた『東京アートポイント計画』(*2)の手法で「芸術文化」による被災地支援を行う。当時、東京アートポイント計画は公益財団法人東京都歴史文化財団 東京文化発信プロジェクト室の1事業だった(東京文化発信プロジェクト室は、2015年にアーツカウンシル東京と組織統合する)。

2011年6月1日。両国にあったオフィスに初めて出勤をした。職名は「東京文化発信プロジェクト室 地域文化推進交流担当」。名刺には「東京アートポイント計画 プログラムオフィサー(*3)」と併記してあった。そして、仕事の説明を受けるなかで東北での支援事業が検討されていることをきき、その日から事業の担当になった。震災後の東北に仕事でかかわることになるとは思いもよらなかった。

東京アートポイント計画はNPOとアートプロジェクトを共催し、都内に無数の「アートポイント」を生み出すことを目指している。開始時に決まったプログラムがあるわけではない。事業の対象地域やパートナーとなる団体の状況に応じて事業を展開していく。お金を出す行政が主導権を握るのではなく、ともに手を携え、公(おおやけ)の活動を市民主体でつくりあげていくことを後押しする。すべてはパートナーと向き合い、話をきくことからはじまる。
目に見えやすいイベントの集客数などを成果にするのではなく、プロジェクトの持続性を支える運営体制づくりを重視する。日本では単年度での予算の区切りが多いなかで、複数年をかけて、じっくりと事業に取り組む。そして事業費だけでなく、事業の進行に専門スタッフであるプログラムオフィサーが伴走し、情報、スキル、ネットワーク等の提供を行う。この事業の特徴は、そのまま現在の文化事業が抱える課題に応答したものだった。
こうした中間支援の手法を受け継ぐASTTは、必然的に現地のパートナーと多くの対話を重ねるものになった。
事業の正式名称は『東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業』、通称『Art Support Tohoku-Tokyo(ASTT)』。通称は事業立ち上げとともに考えた。東北(Tohoku)を先に置き、後ろの東京(Tokyo)を横並びの一本線(-)でつなぐこと。東京から既存の事業をもち込むのではなく、現地の状況に応じた事業を展開しようとする姿勢を込めた。

東北での事業の経験はない。わずかな伝手(つて)を頼りに何度も東北に足を運んだ。
震災という出来事が生んだ、さまざまな線引きは「被災」を見えにくくしていた。家が流されたのか、残ったのか。仮設なのか、借り上げなのか。津波被害なのか、原発なのか……。言葉のもつ分断に捉われず、個人の微細な「被災」を掬(すく)うような実践が求められた。現地を訪れ、さまざまな風景を見て、きいて、ともに実践を重ねることで日常のなかに無数に存在する「被災」の解像度を上げていく。そうして見えてきた震災後の課題は震災以前から社会が内包していたことが露呈したものだった。
震災の発生から、同じだけの時間を重ねてきたASTTは、事業開始から10年を迎えた。実践を重ねながら、災禍の渦中で芸術文化活動をはじめることの意義を実感してきている。時が経つことで見えてきたことがある一方で、すべて成功してきたわけではない。この10年の経験を、いくつかの出来事から書き起こしてみたい。

*1:東日本大震災
2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震と、それを契機とした東京電力福島第一原子力発電所事故が引き起こした災害。死者15,899人、重軽傷者6,157人、行方不明者2,527人(警察庁/2020年12月10日現在)。死者・行方不明者は岩手県、宮城県、福島県の太平洋沿岸部を中心に1都1道10県に及ぶ。

*2:東京アートポイント計画
地域社会を担うNPO(NPO法人のほか、一般社団法人など非営利型の組織も含む)と日常の営みに穏やかに寄り添い、まち・人・活動をつなぐアートプロジェクトを展開することで、無数の「アートポイント」を生み出す、東京都とアーツカウンシル東京による共催事業。2009年から2020年までに、NPOを中心に50団体と40件のプロジェクトを実施している。
https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/artpoint-concepto

*3:プログラムオフィサー
アメリカ合衆国の助成財団において、プログラム設計から運用を担う専門スタッフが起源。東京アートポイント計画では、企画の立ち上げから事業の進行や手続きなどを現場スタッフとやりとりを重ねる「伴走型中間支援」を担う。現場との日々のコミュニケーションの距離は近いが、団体の外にいるという立ち位置が特徴。

連載東北から
の便り