Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

民俗芸能は「日常」を取り戻す手立てになる雄勝法印神楽と鵜鳥神楽

2011年8月。宮城県の事業を検討する会議を仙台市で開いた。現地の状況を把握している方々に集まってもらい、初年度の事業を審議することが目的だった。このとき、せんだい演劇工房10-BOX(当時)の八巻寿文さんは沿岸部での神楽の重要性と支援の必要性について熱弁をふるった。津波による物理的な被災の大きさ、神楽衆の想い、パフォーマンスとしての魅力……。訥々(とつとつ)と、しかし切実に語られる言葉からは、見たことのない神楽の姿が現れてくるようだった。そうして津波で流出した舞台を再建する「雄勝法印神楽 舞の再生計画」(以下、「舞の再生計画」)に取り組むこととなった。これによって、東北における「芸術文化」の支援事業で、民俗芸能を対象にする意義を初めて理解することになった。


2011年10月2日 宮城県石巻市 雄勝の風景

生活と地続きの表現

石巻市雄勝町は宮城県北東の沿岸部に位置する。リアス式の入り組んだ海岸線を縫うように車で走れば、山と浜が交互に現れてくる。集落のある浜を単位に人々の生活は営まれており、津波はこの地域に大きな被害をもたらした。
雄勝法印神楽はこの地域の14の浜で毎年、もしくは数年おきに舞を披露していた。11の浜には神楽のために集落総出で組み上げる仮設の舞台があったが、そのうち10は津波で流出していた。舞台に限らず、流出の被害は道具や装束など神楽を成り立たせるあらゆるものに及んでいた。何より、神楽の担い手は被災の当事者だった。
八巻さんの熱弁からはじまった「舞の再生計画」は、雄勝法印神楽の流出した舞台に代わるものとして、神楽衆が自らの手で組み立てることができる舞台の制作を行った。組み立て型の舞台づくりの発想は、震災の数年前に10-BOXが開催した演劇祭「街が劇場になる日」にあった。この演劇祭で雄勝法印神楽は野外に組んだ舞台で舞った。沿岸部の生活のなかで舞われていた神楽を、仙台という都市部のまちなかで披露する。舞台は、まちなかで神楽を忠実に再現できるように10-BOXが独自に製作したものだった。その仕掛け人が八巻さんだった。
津波で舞台が流出したとき、雄勝法印神楽の方がこのときのことを思い出し、八巻さんに一本の電話をかけたことから一連の動きがはじまった。当時の舞台づくりに携わった仙台高等専門学校の坂口大洋さんと仙台市の東建設の片山鶴衛さんが合流し、舞台づくりは動き出す。
2011年10月。神楽衆の手で舞台を初めて組み立てる日に立ち会った。地面に並べられた角材を、順番を教わりながら、数人の神楽衆が声をかけあって組み上げていく。次第に、笑い声があがりはじめる。四方に柱が立ち、畳が敷かれた。雄勝法印神楽の舞台は、舞手が「浮橋」と呼ばれる十字に組んだ梁に登り、立ち上がるなどアクロバティックな動きが特徴なのだときいていたが、木材が組まれることで四角いスケルトンの舞台が現れてくる。その上に立ち、足を踏み込み、滑らせながら感触を確かめる。すると、おもむろにひとりが衣装を着けはじめた。また別の人は太鼓を叩きはじめる。この太鼓は津波で流出したものの、引き波で返ってきたものだった。予定にはなかったが、組み上がったばかりの舞台の上で嬉しそうに舞う神楽衆の姿は強く印象に残った。それまで作業着やジャージで舞台を組み上げていた人たちが舞手や演奏者になる。神楽は日々の生活と地続きに育まれていた表現手段なのだと知った。
東北には数多くの民俗芸能が存在している。そのほとんどはその土地の人々の身体を介して継承されてきた。昼は生業を営み、それが終われば集まって練習をする。年長者が教え、次の世代の人たちが体得していく。そうして長い時間をかけて継承されてきた文化に、東日本大震災は危機をもたらした。津波が襲った沿岸部では道具の流出や担い手が亡くなるなど物理的な喪失があったからだ。原発事故があった福島県の沿岸地域では、民俗芸能を文化的なアイデンティティとしてもつコミュニティそのものが失われつつあった。年中行事や日々の生活のなかで身体に刻みこまれてきた経験は、震災の影響で一度でも止まってしまえば急速に途絶えてしまう危険性がある。震災以前の規模でなくとも構わないが、とにかく続けていくことが何よりも求められていた。


2011年10月2日 宮城県石巻市 雄勝法印神楽の舞台

観客と育まれてきた文化

岩手県では普代村を拠点とする鵜鳥(うのとり)神楽の「継続」を支援した。普代村は県北部の沿岸部にある人口2,500人ほどの村だ。津波は村の主要産業だった漁業施設に甚大な被害を与えたが、大きな水門と防潮堤は決壊がまぬがれ、集落への被害は食い止められていた。同じ沿岸地域の自治体に比べて、圧倒的に被害の少ないところだった。
この村に継承されてきた鵜鳥神楽は普代村を発ち、岩手県の沿岸地域を巡っていく「廻り神楽」である。普代村から北の久慈市まで向かう「北廻り」と南部の釜石市まで巡る「南廻り」を、同じ沿岸部の宮古市から発つ「黒森神楽」と1年交代で行っている。岩手県各地に土地に根付いた神楽はあったが、鵜鳥神楽と黒森神楽は広域に巡行する動きが特徴だった。
各地域で舞う場所は「宿」と呼ばれ、多くは民家や公民館の座敷だった。神楽が舞うことは、いわゆる舞台公演とは意味合いが異なっていた。新年から春にかけて沿岸地域を巡行する鵜鳥神楽は、各地の人々の生活を祝福し、悪魔を払う存在だった。それは鵜鳥神楽が獅子頭を使うことが特徴であることにも現れていた。神楽に触れることは、人々の営みの一部であり、精神的な支えになるものである。宿とは、神楽衆が舞いに行く場所だけではなく、地域の人々が神楽を迎え入れる場所でもあった。
そうした神楽の性質上、巡行にかかる負担は受け入れる地域側が行うものだった。厳密にいえば「負担」よりは「もてなす」という言葉がふさわしいだろう。鵜鳥神楽の側としては震災後の沿岸部の被災状況を配慮すれば、巡行に躊躇せざるをえなかった。一方で神楽を迎え入れる地域の人たちは「震災後だからこそ」という気持ちがあったが、実際に神楽が巡行してきた沿岸部の集落は甚大な被害を受けていた。互いに見合うような状況のなか神楽の巡行が途絶えてしまうことは、神楽の舞いだけでなく迎え入れる土地の慣習も含めた地域文化を失う危険性を伴っていた。
そうした状況のなかで、神楽と地域の人々の接点となる「宿」を支援することは、双方の思いを汲みながら、ひとつの文化の継承の場をつなぐ方法だった。神楽そのものを支援するのではなく、神楽を迎え入れる側の場づくりの負担を支援すること。それによって神楽が気兼ねなく出立できる状態を整えることを目指した。
2012年の年明けは鵜鳥神楽を追いかけるように、いくつかの宿を巡った。神楽衆は宿で舞いをはじめる前には、獅子頭とともに、その集落の家々を巡り、祝福と悪魔払いをしていた。亡くなった人がいた家では慰霊の念仏を唱えることもあった。そうして岸壁まで行き着くと、家々のときと同じような所作で、順番に船を巡っていく。そうした鵜鳥神楽の姿に、海とともに生きる沿岸地域の精神的な基盤を支えてきた地域文化なのだと実感した。
宿は民家や旅館、公民館のような場所もあった。そこに集まったのは地域で互いに見知った人たちであることが多かった。どことなく親族の集まりのような雰囲気がある。舞いがはじまれば合いの手が入り、掛け合いがある。誰もがその場の居方や見方、楽しみ方を知っていた。人気の演目がはじまれば、にわかに会場は盛り上がる。神楽は舞手が演目を継承してきただけでなく、それをともに楽しむ観客、つまり地域の人々とともに育んできた文化だった。ひとつの舞台は、その空間をともにする人々との共同作業でできあがっていた。
アーティストと観客、つくり手と受け手という役割分担ではなく、互いに混ざり合い、誰もが創造の担い手になる。それが新しい「アート」への参加のかたちなのだ。そう東京の現場で語っていた言葉が、目の前の出来事と重なっていた。むしろ、目指すべき姿を見せつけられているようにも思えた。何とも言えない多幸感に包まれる羨(うらや)ましい光景だった。


2012年1月28日 岩手県釜石市 鵜鳥神楽「宿めぐり」の風景

一言で「芸術文化」といっても、さまざまなジャンルがある。多様であるからこそ、一人ひとりに届くものは異なり、必要とされる意味も違う。同様に、その土地によって求められる芸術文化の性質も変わるのだろう。東北で出会った神楽のような民俗芸能は生活と密接に関係した文化的な営みであり、その土地に生きているという「日常」を取り戻す手立てとなりうる。雄勝法印神楽は被災したなかでも、2011年5月には地域の人々の求めに応じ、ブルーシートを敷いて上演を再開していたのだという。震災後という「非日常」は、そうした日々を支えている文化的な営みの意義を顕在化させた。

連載東北から
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