非常時にアートに何ができるか? それが震災直後に繰り返し問われたことだった。だが、そもそも、非常時と平時に違いはあるのだろうか?
震災後の東北で初動が早かった芸術文化活動の担い手たちは誰もが震災以前から通底する信念をもっていた。芸術や文化に携わる矜持(きょうじ)があった。だからといって、頑(かたく)ななのではない。その場で行動をともにする人々と手を携え、状況に応答する。そのしなやかなふるまいは平時に培われていたものだった。言い換えれば、平時の真価が緊急時に表出したにすぎない。さらに言ってしまえば、震災は平時の活動にあった潜在的な可能性を開花させた。 そう強く意識するようになったのは、震災から5年が経った頃にArt Support Tohoku-Tokyo(ASTT)で『6年目の風景をきく 東北に生きる人々と重ねた月日』を制作したときだった。事業開始からの現地パートナーへのインタビュー集である。震災後に出会い、何度も対話を交わしてきた方々に震災前の活動から話をきいた。
そのうちのひとり、えずこホール(仙南芸術文化センター)館長(当時)の水戸雅彦さんに震災前後の変化を問うと「天災は長い間に必ず起こること」だから、そのときは「萎縮」せずに「何ができるか」を考えたほうがいいと答えていた(*1)。もし、水戸さんに「非常時と平時に違いがあるのだろうか?」ときいたら、きっと非常時においてもいつも通りの芸術文化活動は必要である。むしろ、こういうときこそ必要だと言うだろう。
2017年3月5日 宮城県柴田郡大河原町 えずこホール
えずこホールは宮城県の南側、大河原町にある。内陸の地域で、津波の被害はない。車で十数分の最寄駅のJR大河原駅から仙台駅までは電車で約35分。反対に向かえば約40分で福島駅に着く。
初めてえずこホールを訪れたとき、通用口の基礎のコンクリートには地震の揺れで生じた大きな亀裂が走っていた。外出するとき、職員は放射線量を測るためのガイガーカウンターをもち歩いている。目には見えにくいが、確かに震災の影響を被っていた。
「えずこ」とは、かつて東北地方で子育てに使われていたワラ製のかごを意味する。えずこホールとは「地域文化を創造するゆりかご」になることを願い付けられた愛称だ。大きなカゴをひっくり返したような大屋根が特徴的な施設には、大小さまざまなホールや会議室があり、音楽コンサートや演劇公演などを行える設備が整っている。だが、震災以前から続く地域住民を対象とした「活動」にこそ、その特徴はあった。
えずこホールにとって、地域とは仙南地域2市7町の「圏域」を指す。それは複数の自治体からなる広域行政事務組合が運営を行っていることに由来する。地域住民は公演を観賞しに来るだけではない。ヴァイオリン、チェロ、ギター、合唱、演劇など9つの「住民創造グループ」の活動拠点となっている。
「すべての人が文化活動を通していきいきすることによって、社会が豊かな状態になっていく」。文化施設は学校や病院、警察などと同様に「社会を成り立たせる上で必要な公共機関」である(*2)。水戸さんはそう語っていた。
その態度は、えずこホールの大きな特徴でもある圏域への無数のアウトリーチに現れている。学校や福祉施設などの「館外」で行うアウトリーチは館内の主催公演数を大きく上回り、その数は20年で1000回を超える。こうした震災以前からの理念や活動の蓄積が、震災後の初動の早さに現れた。
えずこホールの動きは迅速だった。震災2日後の3月13日には長期滞在していた劇団員が、避難所となった隣接する体育館で身体ほぐしのワークショップを行う。震災9日後の3月20日には住民創造グループの「えずこシアター」が避難所で同様のワークショップを開始した。いずれもアウトリーチの延長線上の活動だった。そして、震災から1か月後の4月12日には二兎社『シングルマザーズ』の無料公演を開催。こうした一連の動きはSNSなどを通してリアルタイムで地域内外に共有されていた。それは震災を被った東北で芸術文化活動がいち早く再開していることを示し、多くの関係者を勇気付けることになった。
それから2か月が経った頃、ASTTの初出張として、えずこホールの「藤浩志とカンがえるワークショップ」に参加した。ワークショップといっても、何かかたちのあるものをつくったわけではない。アーティストの藤浩志さんと一般の参加者が沿岸部を2日間訪れ、人に会い、話をきいた。そこには津波の後に自らの手で仮設住宅の素材を使い、住まいを再建した家族がいた。避難所となった学校の校長先生は震災後の避難所の様子を「学校の運営と変わらないのですよ」と語っていた。がれきが堆積する市街地や何もなくなってしまった沿岸部を歩いた。ツアーの最後は、参加者同士のディスカッションだった。
北は宮城県南三陸町から南は福島県新地町までを巡った。いずれもえずこホールが対象とする圏域を大きく外れている。通常、公立の文化施設は対象とする自治体の枠組みを越えて動くことが難しい。だが、えずこホールは震災直後に圏域を超えた支援を行うことを運営母体の実行委員会で決定していたのである。そして、この決定によって東北での最初の一歩を踏み出すことができた。のちに「藤浩志とカンがえるワークショップ」の続編はASTTの最初のプログラムとなる。
2011年6月29日 宮城県本吉郡南三陸町
「藤浩志とカンがえるワークショップ」で訪れたときの様子
市町村という自治体の枠組みを越えて動くこと、文化施設が施設内の活動に留まるのではなく、地域の文化的な拠点として機能すること。これは、えずこホールに限ったことではなく、現地パートナーの震災後の働きに共通していた。そうした越境の作法をもつ、水先案内人になる人々と出会い、誘(いざな)われるように、震災後の東北を歩いてきた。
しかし、だんだんと日常が戻ってくるにつれ、その動きに困難が生じるようになった。物理的な復旧は、制度運用も平常化させていく。施設の運営側から「通常業務に集中すべきである」という声は強まり、施設外の越境は特例となった。震災から1年半が過ぎた頃だったと思う。予想以上に日常の回帰は早かった。
ASTTは、水戸さんを筆頭にえずこホールの人たちを水先案内人として宮城県内各所で事業を立ち上げていった。複数の活動を横断し、震災後の状況に楔(くさび)を打つようなフォーラムなども行った。そして、各地の活動が充実していくにつれて、えずこホールは県内の窓口の役割から圏域での活動に集中するようになっていった。
それは支援内容の変化と呼応していた。震災直後は被害の大きな沿岸部に、内陸部の人たちが支援に動いた。その人たちを窓口に外部の支援が入っていった。そうして生まれた活動は、時が経つにつれて自律的な動きになり、内陸部では、より見えにくくなる被災への対応が求められるようになった。
あるとき、えずこホールのスタッフの人たちと話をしていたときに、それぞれの水戸さんとの出会いを教えてもらったことがあった。ある人は、大学のゼミで現場見学に訪れたとき、先生と水戸さんの突拍子もないように思えたやりとりが印象に残っていると語っていた。別の若いスタッフの人は、幼い頃にえずこホールの活動に参加していて、いつも見かける水戸さんにあだ名を付けて友達と呼び合っていたことを話してくれた。
水戸さんは、いつも会話にさりげなくダジャレを差し込んでくる。そして、芸術や社会の理念を語りながら、それを宇宙の話と結び付けていく。そんな水戸さんの人柄が現れてくるようなエピソードだったが、それは同時にえずこホールが重ねてきた時間の厚みを感じさせるものだった。
2017年3月。えずこホールの20周年企画「えずこせいじん祝賀会」に訪れた。2日間にわたって、えずこホールに馴染み深いアーティストや住民創造グループが入り乱れたプログラムが組んであった。あるアーティストは壇上で、ここは「遊び場」なのだと語っていた。当日になってもプログラムの内容は変更が重ねられていく。それを当然のようにえずこホールのスタッフは応答し、動いていた。男声合唱団やアコースティックギターのアンサンブル、演劇など、住民創造グループの上演も続く。みなが上演前に一言、えずこホールへの想いを語っていたが、ある人は、ここは「生きるために不可欠な場」なのだと言う。地域の観客側もプログラムの楽しみ方を知っている。表現することの喜びや、表現に触れることを楽しむ、いきいきとした空気が充満していた。
文化施設は警察や病院のような「社会機関」である。そう、水戸さんは語っていた。非常時でも揺るがなかったその理念の力強さは、長い時間をかけた実践での自らの実感とともに育まれたのだろう。それはかかわった人たちのなかにも確かに息づいていた。
震災は、平時の実践の真価を露わにした。それは強固な理念だけでなく、そうした無数の実践が裏支えしていたものだった。
出典
*1、2:佐藤李青・嘉原妙『6年目の風景をきく 東北に生きる人々と重ねた月日』(アーツカウンシル東京、2016年)