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特集10年目のわたしたち

土地の文化をアートで引き継ぐ『森のはこ舟アートプロジェクト』

福島県は約70%を森林が占めている。東京電力福島第一原子力発電所事故で大気中に放出された放射性物質は、その森林に降り注ぎ、植物や動物を汚染した。『森のはこ舟アートプロジェクト』(以下、『森のはこ舟』)は福島県の森林文化をテーマに、会津地域で2014年にはじまった。会津地域にある西会津町、喜多方市、三島町では2011年からアーティストのワークショップと地域の文化に触れる体験を提供する「週末アートスクール」を開催。すでにそれぞれの地域には、アーティストや参加者を受け入れ、企画を実施できる自律した体制がつくられていた。
それぞれの地域の運営チームで議論し、事業を実施する。地域ごとに「エリアコーディネーター」を立て、定例会を行い、進捗共有や『森のはこ舟』全体の今後の方向性を議論した。地域の自治と広域の連携。二段構えで議論のテーブルをつくることで動いていった。月に一度の定例会は、毎回会津若松市の福島県立博物館で開かれていた。集まったメンバーは、その地域のいわゆる「代表」ではない。現場の最前線に立つ実践者であり、それぞれの土地で暮らす生活者だった。会議の議題は、常に具体的で切実である。どうアーティストとやりとりをすればよいのか。契約はどうするか。予算はどう使うか。「アート」という言葉が通用しない現場で、どのように事業の理解をつくっていけばいいか。長いときには、ひとつの話題で数時間も議論したこともある。それぞれの地域では語りにくい悩みを共有し、次の一手を見出すための方法を学び合う場になっていった。
会議の参加者はみな会津地域に住んでいたが、隣接した市町村でも、車で平均40~50分かかる。集落は広大な山や川に隔てられ、冬は雪に閉ざされる。その地形を縫うように道が走り、鬱蒼とした森に抱かれるように人々の営みがあった。「会津」というアイデンティティを共有していても地域が背負う「文化」は違う。それぞれの地域での取り組みを共有することや初めて一緒に何かをやってみることで、そうした互いの違いに気付くようになった。それはのちに複数の地域が連携した事業へと発展していくことにもなる。『森のはこ舟』は、事業を介して「ばらばら」な人たちが集まる、いくつものテーブルを用意した。


2018年3月15日 福島県会津若松市 『森のはこ舟』定例会の風景

地域の「文化的DNA」を受け渡す

西会津町のエリアコーディネーターを務めた矢部佳宏さんは1978年西会津町生まれ。海外でランドスケープアーキテクトとして働き、震災を契機に帰町、「西会津国際芸術村」(以下、芸術村)を軸にまち全体の風景をつくるような活動をしていた。芸術村を人が集まる場所として開放する。空き家を改修し、拠点化する。移住を希望する人たちの住まいや仕事をつなぐ。矢部さんはまちの行く末に強い危機感を抱き、明晰な言葉やビジョンで町内外の人たちを巻き込み、まちの新たな活動の原動力を生みだしていた。
あるとき、矢部さんは土地に刻まれてきた「文化的DNA」がなくなってしまうことが本当の意味で地域の「消滅」なのではないかと語っていた。単に人が減っていくことが問題なのではない。これまで長い時間をかけて築かれた地域の文化が継承されないことこそが課題であり、そのための「文化的価値の再発見」がアートに求められるのではないか、と。19代前の先祖が拓いた集落を引き継ぐ矢部さんの時間軸は、とても長かった。


2014年9月29日 福島県耶麻郡西会津町 廃校を活用した西会津国際芸術村

『森のはこ舟』のメンバーの間には、土地に刻み込まれた歴史や周囲の自然を学ぼうとする姿勢があった。アートの技術を介して、その場に立ち会う人々とともに、地域の文化に触れる。その土地で暮らした過去の誰かと、その経験を受け渡す未来の誰かの間に立つ役割をかれらは担っていた。それは新しい文化を創造する行為のようにも思えた。
みな年齢は若く、移住者もいた。共通するのは、自分が暮らす土地と結び付いた生活や仕事を自分の手でつくりだそうとする姿勢をもっていることだった。矢部さんのように、震災を契機にそうした生活を選んだ人も多かった。
メンバーは「つくる」ことに長けていた。事を立ち上げる。場や物をつくる。そうした他者と共有可能な「現れ」をつくる技術、すなわち「アート」の領域で培われてきた術(すべ)を駆使していた。建築、美術、パフォーマンスなどジャンルも経験もさまざまだが、それは問題ではない。物事をつくる素養をもつという点で共通するものがあった。

生活の記憶を分かち合う

三島町のエリアコーディネーターを務めた三澤真也さんは1979年長野県出身。東京の美大を卒業し、世界各地でアート活動を行った後、国内での木工修行を経て、木工の仕事をきっかけに三島町を訪れた。まちは蓑(みの)を着て歩いている人がおり、熊などの狩猟文化がいまも息づいている。そうした風景に惹かれ、三島町に移り住んだ。
2014年に三澤さんはアーティストのEAT&ART TAROさんと「食のはこ舟」というプロジェクトに取り組んだ。TAROさんと三澤さんが、トチ餅づくりをトチの実の採集から餅づくりまですべての工程を集落の人に教わり、地域の失われゆく文化を継承しようとする試みだった。
でき上がったトチ餅を食べる日にTAROさんから、次のような話をきいた。トチ餅をつくってみると、いくつか明らかに必要のないように思える工程があったが、それでもそのすべての工程がいままで継承されてきたことに気付いた。三島町は、豪雪地帯で食糧の環境が決して良くはない。トチ餅づくりの失敗は生きるための糧を失うことを意味する。だから、失敗せず、確実にトチ餅をつくれるこの工程が続いてきたのではないか。そうTAROさんは推察していた。
トチ餅づくりの流れは集落の人に描いてもらい紙芝居となった。三島町では、町の主導で民話を紙芝居にする活動が行われていたため、公民館にはいくつか紙芝居が保存されている。そうした風習のある土地ならではの「残し方」に沿ったものだった。
土地の文化には、そこに暮らす人々の生活の記憶が込められている。それは日常に浸透しているからこそ、文化となる。けれども時が経ち、生活のありようが変化すると消えてしまう。継承において、アートは再び文化を生きたものとして、他者と共有するための術となりうる。そして、その伝達にはいまを生きる人が介在する余地が必要だ。誰もが情報を正しく知ることができるレシピよりも、その土地の人たちの間で語り、使うことができる紙芝居というかたちであることや、三澤さんやTAROさんが抱えてしまった一見不要に見える「秘密」の工程のようなものが。


2017年3月21日 福島県大沼郡三島町 『食のはこ舟』でつくった紙芝居

「寂しさ」と向き合う

『森のはこ舟』は、アーティストを水先案内人として、それぞれの土地の文化に向き合おうとしてきた。そこには、地域が迎える喪失への危機感があった。『森のはこ舟』の地域は、いずれも急激な高齢化と人口減少が起こっている。新たな移住者が急激に増えるわけではない。三澤さんはこれまでの活動を振り返り、地域の人々が抱える「寂しさ」と向き合ってきたのではないかと語っていた。
喜多方市のプログラムでは、ひとりしか残されていない集落で、昔の風習にならった結婚式を挙げるものもあった。それは祝祭的であると同時に、これから集落を閉じ、次の世代に文化をつないでいけないという寂しさに触れることでもあった。こうした取り組みは、必ずしも「前に進む」ということだけではなかった。
「(空き家を)のちのち使えるようにするためには、きちんと終わらせなければならない」。あるとき、矢部さんがそう語ったことがあった。静かに失くなっていくものに対して、どのように向き合うか。ここにある文化を継承していくために、どう終(しま)っていけばいいのか。これは『森のはこ舟』の実践から繰り返し現れた問いだった。
3年間の『森のはこ舟』が終わった後も、かかわったメンバーは、変わらずに自らの土地で実践を続けている。矢部さんは芸術村の運営を続けながら、持続可能な集落づくりをはじめた。矢部さんが引き継いだ集落をひとつの「惑星」のように見立て、「暮らすように泊まる」宿づくりを行っている。その目線は常にひとつの活動ではなく、地層のように重なっている過去から現在に至る集落の風景に向いているのだろう。
三澤さんは三島町でゲストハウスを運営している。地域外から泊まりにくる人たちだけでなく、三澤さんのつくる多国籍感のある料理は地域の人たちに人気なのだという。スタッフを雇い、オーナーとしての手腕を発揮している。
文化を継承するとは、これまで続いてきたかたちをそのまま踏襲するだけではない。かつてその土地で生きた人々の想いを引き継ぎながらも、いまを生きる人々のなかに新たに息づき、生まれ直していくものなのだろう。

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