2017年3月。宮城県の松島湾を囲む地域を舞台とする『つながる湾プロジェクト』のメンバーから、文庫版の小冊子『松島湾のハゼ図鑑』のレイアウトデータが届いた。『つながる湾プロジェクト』は地域の文化を捉え直す試みとして、2013年にArt Support Tohoku-Tokyo(ASTT)をきっかけに立ち上がったものだった。
『松島湾のハゼ図鑑』には、沿岸部に住む人たちにとって身近な魚であるハゼの種類や生態、地域の風習との関係がまとめられていた。平易な文章と軽妙なイラストが図鑑としての魅力を引き立てている。文章を担当したのは、この図鑑の制作から新たにプロジェクトに参加した加藤貴伸さん。本書の「あとがき」には加藤さんの実感が記されていた。
平凡でありふれているということは、それだけ身近な存在だということでもある。それなのに僕は今まで、その存在のことを何も知ってはいなかった。知ろうともせずに軽んじていた。数ヶ月間のハゼとの付き合いの中でそのことに気づかされた僕は、この図鑑の制作に携わることにした。今更ながら、ハゼともう一度出会い直したくなったのだ。(*1)
塩竈市出身の加藤さんは、ちょうど地元に戻ったタイミングで、『つながる湾プロジェクト』のメンバーに声をかけられたのだという。そして、身近な存在だったハゼと出会い直すことになった。地域に当たり前のように存在する文化資源を、数か月かけて丁寧に取材をし、図鑑にまとめる。その制作プロセスは、自らが生まれ、暮らす土地のアイデンティティを再確認する作業になったのだろう。
この「あとがき」を読んだとき、とても驚いたことを覚えている。加藤さんとハゼとの出会いは、『つながる湾プロジェクト』が目指していたものを具現化する出来事のように思えたからだ。ちょうど活動がはじまってから5年が経とうとする頃だった。活動を続けることで、さまざまな実践を介して、新たな人がかかわるようになる。そして活動の「色」ともいえる独自性が育まれ、思い描いていたイメージが実現するようになる。ひとつのプロジェクトがたどる道のりとしては当然のことかもしれない。その事実に驚いたのは、『つながる湾プロジェクト』が、もともと異なる領域で活動する人たちの出会いからはじまったからだった。
2019年6月23日 宮城県宮城郡松島町 松島湾の風景
『つながる湾プロジェクト』立ち上げの中核を担った髙田彩さんは2006年から故郷である宮城県塩竈市でビルドスペースというアートスペースを運営していた。港町の塩竈市は、津波の被害にあったが、海に近い場所にあったビルドスペースもまた被災をしていた。そうした状況下にありながら、髙田さんは震災以前からのネットワークを生かし、いち早くアートによる支援に動きだしていた。たとえば、2007年から地域のアーティストとともに、幼稚園や文化施設などでワークショップを行ってきた「飛びだすビルド!」は、震災後、さまざまな場所で子供たちを対象としたワークショップを展開していた。
この頃、髙田さんのもとへは地域内外から支援にまつわる話が殺到していたという。わたしたちも、そのひとつだった。
塩竈市には浦戸諸島という4つの有人島を有する島嶼(しょ)部がある。湾を抱くような塩竈市の内陸部への津波は、外海にさらされた浦戸諸島によって弱められた。そう言われるほどに甚大な被害を被っていた場所だった。この浦戸諸島への支援が必要なのではないか。震災から1年目が終わるころに髙田さんから、そう教わった。
ひとつの島に集中するのではなく「諸島」という魅力を生かしたプロジェクトができないか。しかし、どう手を付けていいかはわからない。では、誰とやればいいだろうか。そう問いが変わったとき、髙田さんから津川登昭さんの名前が挙がった。ふたりの面識はあったが、一緒に何かを実践するのは初めてだった。
津川さんは、当時、チガノウラカゼコミュニティという団体をつくり、まちづくりや地域振興の活動をはじめていた。「チガノウラ(千賀の浦)」とは塩竈市が面する湾の名称である。塩竈市を含め、松島湾を囲むように複数の自治体が隣り合っている。行政区のような「陸の視点」の線引きに捉われるのではなく、湾という「海の視点」から広域に地域を見直したい。その津川さんの想いは、『つながる湾プロジェクト』という名称に発展していった。『つながる湾プロジェクト』は髙田さんと津川さんという同じ土地に暮らし、異なるネットワークをもった人同士の出会いから生まれていった。
「私たちはただ生きるのにもこんなに大変なのになんでこんなに負荷を与えるの?」(*2)。髙田さんは、プロジェクトのはじまりを振り返り、そう語っていたことがあった。髙田さんにとって、『つながる湾プロジェクト』は「異質なものとの出会いの連続」だったのだろう(*3)。
支援とは時々の状況に寄り添いつつ、現地の人々に何らかの「よい変化」を起こすことをねらうものだった。しかし、「変化」は精神的に、身体的に負荷をかける。震災はすでに圧倒的な変化を生活にもたらしていた。そもそも支援自体が負担なのではないだろうか。そう逡巡しながらも、事業を立ち上げるためには一歩踏み込んだ活動が必要だった。髙田さんの言葉は、そうした動きを率直に言い表すものだった。
『つながる湾プロジェクト』に共通していたのは、自らが暮らす土地の文化を引き継ぐという姿勢だった。メンバーは誰もが、『つながる湾プロジェクト』の対象である松島湾を囲むエリアで暮らし、これからの地域の次世代を背負っていくような人たちだった。アートという技法を用いて、土地の文化を再発見していくことが、『つながる湾プロジェクト』では実践されていった。
アーティストの五十嵐靖晃さんとは、3年をかけて松島湾を囲む3つの地域で「そらあみ」を実施した。五十嵐さんが日本各地で取り組んでいる「そらあみ」は、その土地にゆかりのある色に染め上げた糸を使い、地域の人たちと漁網を編み、それを空に掲げて風景を眺めるという作品だ。染め上げる色を決めるために土地のことを調べ、網を掲げる場所を探し、近隣の人たちの力を借りて、「そらあみ」を実現していった。
そして、時が経つにつれて、『つながる湾プロジェクト』はアーティストが主導するものから、運営メンバーが発案した企画に主軸が移っていった。
2013年9月3日 宮城県塩竈市 「そらあみー浦戸諸島」の実施風景
2016年にはプロジェクトメンバーの大沼剛宏さんの発案で「松島湾とハゼ」が立ち上がった。ハゼ釣り名人に学びながら、ハゼを釣り、そのダシを使い、雑煮をつくってみる。松島湾の自然とそこで暮らす人たちの営みを季節の流れとともに体感するものだった。この経験は、冒頭の『松島湾のハゼ図鑑』の題材選びのきっかけとなった。
髙田さんと津川さん、ふたりの出会いからはじまった活動も、『つながる湾プロジェクト』としての広がりをもつようになった。2018年からは、松島湾のさまざまな活動を1年の季節を通して体感することを意識する「湾のパスポート」を発行。毎年の終わりには、その活動が一堂に会する市場をひらく「文化交流市場」もはじまる。『つながる湾プロジェクト』は、メンバー同士が関係を築いたネットワークから、地域の人たちをつなぐプラットフォームへと展開していった。
異なる考えや技術をもつ人たちが、いままでにないやり方に取り組もうとしたとき、確かに変化は起こる。その成果ははじめたときには、はっきりとはわからない。だからこそ、時間をかけることで、誰もが想像もしえなかった地点に立つことができるのだろう。それはアートを掲げた実践に賭ける醍醐味なのだと思う。道のりは決して平坦ではないし、その道のりをともにしたからといって行き着く先が同じわけでもない。プロジェクトが変化することも成果だが、プロジェクトにかかわった人たちのなかで起こる変化にも目を向けるべきだと感じる。
津川さんは『つながる湾プロジェクト』の活動を通して、アートは何かを伝えるための「手法」ではなく、「もっと根底のほうで必要なもの」と考えるようになったのだという。そして、自らの仕事に「アートの視点」を取り入れるようなった。けれども「アートって何だろう?」という答えはいまもないと語る。
何らかの完成形をみんなでつくるというより、関わる人たちがいい方向に向かって動く、その変化の方に価値があると俺は思ってるの。その変化を共有するということが、一緒に生きてるということじゃないかなって。それは「つながる湾」に限らず、世の中全体に言えることだと思うけど。だからメンバーが変化を楽しめなくなったら、やめてもいいと思う。続けなければいけないという発想じゃなくて、メンバーの俺らがやりたいことをやっていけばいいんじゃないかな、という気がする。(*4)
異質な方法や答えをもつメンバーが、時間をともにし、実践を重ねていく。それを震災という非常時が後押しした面はおおいにあるだろう。そうはじめようと思ってはじめたわけではなく、せざるをえないからはじまってしまったことだった。「地域の外から来たもので、この土地に何かいいものが生まれるはずだ。そう思って、震災後にやってくるいろんな話を受け止めてきた」。それが震災直後を振り返ったときに、髙田さんや津川さんが共通して語っていた心境だった。
これまでの道のりを思い起こせば、そもそも震災があったことを含めて「よい変化」ばかりではなかったのも事実だ。だが、時間が経つなかで見えてきたプロジェクトやメンバーの変化を前に、いまは平時でも必要な「はじまり方」だったのではないかとも思う。それは震災の経験を平時の知見に引き継ぐことにつながっている。
*1:『松島湾のハゼ図鑑』(つながる湾プロジェクト、2017年)
*2、3:『震災後4年目の語り。―7つのケース、宮城の9人の声の記録―』(東京文化発信プロジェクト室、2015年)
*4:「自分の中の「アート」の意味が活動を通して大きく変わった 津川登昭(地域プロデューサー)」『つながる湾プロジェクト』