2011年7月。初めて会津若松市にある福島県立博物館(以下、県博)を訪れた。「福島県立博物館がいいと思います」。きっかけは福島県西会津町出身で都内の事業でかかわりのあった、東京藝術大学特任准教授の伊藤達矢さんの一言だった。すでに被災地に入っていたアーティストなど、過去に何らかの関係があった人の伝手をたどっていく。そうして震災後の東北で奔走する人たちと出会っていった。
県博は1986年に開館した自然、歴史、考古、民俗、美術など複数の分野にわたる総合博物館だ。重厚な黒い大屋根が特徴的な「館」に入ると、天井の高いエントランスホールがある。そこで学芸員の川延安直さんと小林めぐみさんに初めてお会いした。当時の印象を川延さんは次のように記している。
まず、福島の現状は、というお尋ねから始まりましたが、何しろ福島の現状は混沌としています。一言でお伝えできないもどかしさを感じました(*1)。
震災直後に誰かに紹介され、会いに行った人たちは、みな多忙だった。地域外のあらゆる話が集まってきていたのだろう。目の前で起こる、具体的で切実なさまざまな出来事を俯瞰して語ることは難しかったに違いない。
実際に現場を見せたほうが早い。そう思ったのだろう。この日は、隣の喜多方市で行われたフォーラムに連れていってもらった。会場までの道のりでは初めて木造の仮設住宅を見学した。フォーラムのテーマは「福島の未来と会津の役割」。東京電力福島第一原子力発電所事故を経験した福島で、どのように自律したエネルギーを地域で確保していくのかが議論の的だった。フォーラムが終わった後の交流会で、大和川酒造代表の佐藤彌右衛門さんは、かつて独立した「藩」だった会津が、いまこそエネルギーを自律化し、ふたたび独立するのだと気炎を吐いていたが、数年後には本当に電力会社を立ち上げた。このとき、会場にいた人たちの熱気はいまもありありと思い出すことができる。震災後の福島の雰囲気が一気に身体に流れ込んでくるような経験だった。
川延さんと小林さんは、さながら福島県内外の結節点のような役割を担っていた。それは福島「県」の文化専門機関として、県内を縦横無尽に動き回っていたからだ。避難所でのアーティストのワークショップを行うこと、県内各所の文化施設や文化財の状況を調べて回ること、さまざまな地域のあらゆる分野の文化の担い手たちをつなぐこと。こうした背景には震災以前からの県博での取り組みが地続きにあった。そして、ふたりが携わる無数の動きには、原発事故がもたらした「福島」の一枚岩では語りづらい現実が重なり合っていた。この出会いから、福島県でのArt Support Tohoku-Tokyoがはじまり、わたしも次第に「混沌」の意味を理解することになった。
福島県は東西に広い。岩手県に次いで、国内では2番目に大きな県だ。沿岸地域の「浜通り」、新幹線が止まる福島や郡山駅がある「中通り」、そして西側にある「会津」の3つの地域からなる。東京電力第一原子力発電所は浜通りにある。原発周辺に住んでいた人たちは、自らの土地を離れざるをえず、会津にも浜通りから多くの人たちが移動してきて、避難所や仮設住宅で暮らしていた。
浜通りと会津は車で移動すると2時間以上かかる。太平洋側で、ほとんど雪が積もらない浜通りに比べて、山間地域に囲まれた会津は豪雪地帯。どちらかといえば会津は、文化的には地続きで隣接した日本海側の新潟県に近い。浜通りから避難してきた人たちにとって、生活環境の「差」がもたらす負荷は大きかっただろう。
会津は、浜通りや中通りに比べて、放射線量が低かった。原発事故で変化してしまった「福島」のイメージを会津も背負うことの戸惑いがある。その一方で同じ福島として浜通りや中通りを支援する立場への自覚がある。会津に暮らす人々には、そうした複雑な感情が錯綜していた。
2011年11月、福島県の最初の事業「週末アートスクール」を実施した。中通りや浜通りの子供たちを会津に招き、アーティストのワークショップを通して会津の文化に触れる1泊2日。放射線量を意識せざるをえない生活がもたらすストレスをひとときでも軽減することが目的だった。
アーティストの選定は県博と伊藤さんが主導し、参加者の滞在受け入れは各地域の団体が担当した。いずれの団体も普段は、まちづくり、地域振興、グリーンツーリズムなどを行っているので、ほとんどが「アート」の事業は初めての経験だった。
集まった30名ほどの子供たちは、民家に滞在し、ワークショップで豊かな自然や季節の風習、地域の食に触れた。その地域での体験づくりは、それぞれの団体の得意分野が生かされた。この方法であれば、会津で、中通りや浜通りの人たちに支援ができる。自分たちが住む土地の文化に親しむ子供の姿を目の当たりにした地域のメンバーは大きな手応えを感じていた。その後、数年にわたってプログラムは継続することになる。
2011年12月17日 福島県喜多方市 週末アートスクールの様子
事業の立ち上がりは早かった。アート未経験のメンバーが集まり、複数の地域でプログラムを展開できたのは、県博が震災以前から福島県と準備していた「奥会津アートガーデン」の構想があったからだった。奥会津とは会津地域の南西部、週末アートスクールを開催したエリア一帯を指す。奥会津アートガーデンでは、この地域を舞台にさまざまな人や団体との連携を計画していたが、震災で頓挫。週末アートスクールを地域で受け入れたメンバーは、もともとこのときに川延さんと小林さんが声がけをした人たちである。週末アートスクールは、震災以前に県博のふたりが耕していた土壌から芽吹いた活動だった。
あるとき、川延さんが「なぜ、博物館がアーティストとかかわるのか」と話していたことがあった。博物館は「宝物」を守るだけの施設ではない。次世代の宝物となるような文化をつくっていかなければならない。そのためにはアーティストの力が必要になる、という内容だった。この問いは、博物館の外で、地域のなかを駆け回るように活動をしてきた川延さん自身が何度も投げかけられたものだったのだろう。ときには博物館の業務から「逸脱」しているのではないか、と問われたこともあったはずだ。なぜ、館内に集中せずに館外ばかりに目を向けるのか、と。だが、いずれの活動も常に「いま、博物館が何をすべきか」という信念に支えられていたのだと思う。
2009年に川延さんは県博が「開かれた博物館」を目指すにあたって、アーティストを館内に招き入れた「岡本太郎の博物館〜はじめる視点〜」展を企画した。常設展示室でのパフォーマンスなど、博物館の収蔵資料とアーティストの活動を連動させることを試みた。県博を紹介してくれた伊藤さんは、この展覧会の出展作家のひとりだった。
2010〜2012年には、会津若松市や喜多方市を舞台とした「会津・漆の芸術祭」を開催した。地域の伝統工芸である「漆」。リサーチを通して地域の作家とネットワークをつくり、そこにアートの視点を入れ込む。芸術祭の開催地域を拡大していくことが、奥会津アートガーデンの構想だった。震災後に生まれた活動には、「前史」があった。
県博は2012年に県内各地でアートプロジェクトを展開する『はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト』(以下、『はま・なか・あいづ』)を立ち上げた。名前の通り、県内の3つの地域を横断し、複数のアーティストが地域とかかわりながらリサーチや作品制作を継続的に行った。アーティストが地域に「入る」だけではない。週末アートスクールのように地域のパートナーや文化施設がともに歩みを進めた。川延さんは「震災後、とりあえず全部のプロジェクトを生き残らせようと思った」と語っていた(*2)。県内を縦横無尽に動き回る姿は、さながら文化の生態系を育むための種播きのようだった。
6年間続いたプロジェクトの成果は県博で展覧会となった。震災の支援活動は、再び博物館という装置によって、その成果が可視化された。その後、館外の活動は時間の経過とともに館内の機能との均衡を模索するようになる。それは震災という非常時から、平時に業務が回帰していったことも背景にあっただろう。
2015年11月6日 福島県双葉郡浪江町 『はま・なか・あいづ』の一環として
写真家の安田佐智種さんが震災前のまちの暮らしを
インタビューしている様子(提供:福島県立博物館)
2018年3月15日 福島県会津若松市 福島県立博物館のはま・なか・あいづ
文化連携プロジェクト成果展「アートで伝える考える 福島の今、未来
at Fukushima Museum」での安田佐智種《みち(未知の地)》シリーズの展示風景
2017年、「いのちとくらし」をテーマとした福島県内外のミュージアムのリサーチとネットワークを目指す『ライフミュージアムネットワーク』が誕生した。このときにはっきりと「ミュージアム」が主語になる。震災後に培った文化施設や担い手との関係をより深める実践をつくる。県外の先例から学び、県の博物館としての機能を再定義していくような試みだった。
もともと『はま・なか・あいづ』では県内で展開したプロジェクトの成果展を全国各地で展開していた。松本、足利、長岡、水俣、別府、浜松……。福島の経験を提示することから、それぞれの土地の人たちと対話をし、抱える課題を共有していく。あえて情報発信効果が高い大都市ではなく、自らの土地に向き合える規模の場所が選ばれていた。
福島という土地に向き合いつつ、福島の経験があるからこそ各地の出来事に目を向ける。その両面をもつライフミュージアムネットワークは、県博が追い求めてきた「開かれた博物館」の震災後の経験を踏まえた現在地なのだろう。
2019年11月に、ライフミュージアムネットワークのリサーチで、2021年開館予定の青森県の八戸市新美術館準備室を訪れた。参加者が相互に学び合う「ラーニング」をコンセプトに掲げ、市民の活動拠点としての「新たな美術館像」が目指されていた。その構想は建築に込められ、スタッフ体制にも反映されていた。
学芸員の方々との意見交換をしているとき、小林さんは次のように語っていた。「学芸員の仕事は(地域とのかかわりにおいて)非常時に必ず役に立つ。ものの来歴を調べることは地域を知ることであり、そこには人とのかかわりが介在する。そうして培われた技術や関係性は非常時に機能する」。
それはとても実感が込もった言葉だった。震災後に見えたものは「特例」ではない。それは、当事者にとって回帰した平時を再定義するものとなった。それと同時に、これから新たな実践をはじめる人たちにとって、未来を先取りする経験であるのだと思う。
*1:「会津・漆の芸術祭 スタッフ日誌 2011年7月20日」『会津・漆の芸術祭』(現在は国立国会図書館WARPのウェブサイトにてアクセス可能)。
*2:佐藤李青・嘉原妙『6年目の風景をきく 東北に生きる人々と重ねた月日』(アーツカウンシル東京、2016年)