Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

連携は実践からつくられるARC>Tと10-BOX

2012年8月。せんだい演劇工房10-BOX(以下、10-BOX)を訪れた。10-BOXは演劇を「つくる」ための専門施設として2002年に仙台市が設立。演劇公演も行うが、稽古場が主な機能だ。仙台市の中心部から少し離れた、津波の被害が最も大きかった沿岸地域の若林区に位置する。震災当日に東京で見ていたニュースに「若林区荒浜の海岸に200〜300の遺体」というセンセーショナルなテロップが流れたことを、いまもよく覚えている。若林区の約57%は浸水地域になった。同じ区内でも海まで車で20分ほどの位置にある10-BOXに津波の被害はなかったため、地域内外から仙台市中心部を経由し訪れる支援活動と、被災した沿岸部の中継地点の役割を果たすことになった。 稽古場というつくり手の交流が生まれやすい施設特性もあり、震災直後から10-BOXはホワイトボードやブログを介して東北の演劇人の安否情報を発信し続けた。震災から1か月後には施設利用の受付を開始。5月には部分再開し、一部スペースを「月と太陽の広場」と名付け、誰でも使える場所として開放していた。当時2代目工房長を務めていた八巻寿文さんは、10-BOXは「中間支援のターミナル」として、「沿岸部に向かう演劇関係の支援者が立ち寄って、一息つきながら情報を交換するような場」になったと語っていた(*1)。
大道具をつくる場所があり、稽古場がある。倉庫があり、体育館もあった。施設内を案内してもらうと、沢山の絵本が積まれているのが目に付いた。沿岸部に絵本を届ける「こどもとあゆむネットワーク」のものだった。
そして、10-BOXの1室が、アートリバイバルコネクション東北(ARC>T/アルクト)の拠点になっていた。この日、宮城県沿岸部へ向かう道すがら10-BOXへ立ち寄ったところ、ARC>T事務局長の鈴木拓さんたちが迎えてくれた。天井が高く、壁は黒い。稽古や公演のためにつくられた空間なのだとわかる。だが、このときは会議机や棚には資料が並んでいた。ホワイトボードに書き込みがあり、資料が貼り付けてある。そのことが、いままさに動いている拠点であり、同時に仮設の場所であることを感じさせた。
ARC>Tは、2011年4月に演劇人を中心に立ち上がった組織である。当初から活動期間を2年に定め、復興支援を目的にしていた。「支援をしたい」というアーティストの想いを汲み取り、支援を受けたいという沿岸地域のさまざまな場所のニーズに応える。避難所での身体ほぐしをはじめ、学校や児童館、障害のある人や高齢者の施設でアーティストがワークショップを行う。そうしたアーティストと場のマッチングを行う「出前」事業が活動の中心だった。
ARC>Tが組織として立ち上がり、1か月が過ぎる頃に10-BOXが活動を再開。「震災復興を目的とした専門性の高い市民活動」として10-BOXに拠点を構えた。わたしが訪れたのは、それから1年が過ぎた頃だった。
ARC>Tが活動した2年間は、緊急の要請に応える期間だと言える。のちに東北では延長されたが、仮設住宅の利用期間は原則2年。当初、Art Support Tohoku-Tokyo(ASTT)も、この2年を目安に事業をはじめていた。この非常時の真っ只中ともいえる時期に、ARC>Tは状況に「応答」し続けたが、集団としての活動の立ち上がりの早さは特筆すべきものだった。同時に、その初動期の働きは、10-BOXとのかかわりを通して、よりはっきりと見えてくる。


2012年2月17日 宮城県仙台市 ARC>Tの拠点風景(提供:ARCT)

連携は実践からつくられる

八巻さんは現場で「(10-BOXとARC>Tは)復興に向けて同じほうを向いて走っているけど、レールは違う電車なんだ」と繰り返し語っていたのだという。公立の文化施設である10-BOXと、アーティストを中心に立ち上がった民間の組織のARC>Tでは、その活動の特性は当然のように異なる。
立ち上がったばかりのARC>Tは、10-BOXというプラットフォームにのることで情報や人が集まってくるようになった。「ARC>Tならばできるかもしれない」。10-BOXの公的な枠組みでは難しい話は、ARC>Tに接続することで実現の可能性が高まった。その逆の例もあっただろう。公の施設だから生まれる信頼性、民間組織だからこそもつ柔軟性や機動力。それぞれの長短を生かした連携が生まれていた。
あるとき、八巻さんがおもむろに組織図を手に杜の都の演劇祭の運営体制を説明してくれたことがあった。杜の都の演劇祭は、仙台市と10-BOXを運営する仙台市市民文化事業団、杜の都の演劇祭プロジェクトという民間のチームの3者が協働した事業である。10-BOXのなかにプロジェクトの事務局があり、拓さんは杜の都の演劇祭のプロデューサーだった。2008年から続く演劇祭を通じた実践は、震災後の10-BOXとARC>Tの連携の姿と重なっていた。
拓さんは、震災直後から「“演劇的活動”で支援する枠」をつくることを模索していた。そのとき、ある程度の「行政のバックアップ」が必要であると考え、そのスキームづくりを早い段階で八巻さんと話し合っていた(*2)。それは、まだARC>Tが生まれる前のことだ。
震災後に多様な主体の連携やネットワークの必要性を、さまざまな場所できくようになった。何かあったときに相談できる人がいるかどうかが、初動の早さに大きく影響することは、多くの人が実感したことだった。それは日頃の具体的な実践を通して形成される。実践をともにすることで互いの特性を理解し、相手に「何が」相談できるのかを知る。異なる主体で物事を動かす仕組みを体感する。その経験があることで、連携は自ずと生まれてくるのだろう。


2011年5月3日 宮城県名取市 ARC>Tの活動風景(提供:ARCT)

現場の葛藤を振り返るには

震災直後から、ARC>Tの事務局長を務めていた拓さんは多忙を極めていた。アーティストのネットワークは、2年で百数十人まで増えた。求めに応じて、俳優やダンサーたちが向かう先は劇場やホールではなく、ほとんどアート活動など行われていない場所だった。各地の「ニーズ」に触れることは、震災以前は思いもよらなかった場所や人にアートの届け先を見出すことだった。
一方で、アーティストと支援先をつなぐ「コーディネーター」役は少人数の事務局が担っていた。「できるかぎり支援していきたい」。その態度に比例し、事務局の負担は増していく。外部資金が入ることは、アーティストと事務局の間に金銭を介した微妙な力関係を生んだ。ASTTではいくつかの事業をともにし、ときに活動を振り返ることもしてきたが、印象に残ったのは拓さんの悩んでいる姿だった。
「いつも訴えていたのはコーディネーター不足。コーディネーターの謝金がない、育成する機関も術も東北にはない」(*3)。そう語っていた拓さんの言葉は、震災以前から感じていた演劇における「制作者」の必要性と地続きのものだった。ARC>Tは新たな可能性をもたらした一方で、震災以前から続く課題をも顕在化させた。
ARC>Tは設立時の予定通り、2年でその活動を終えた。そして、後継の組織としてARCTが立ち上がった。拓さんは2012年にboxes Inc.を設立し、現在も東北を拠点に演劇の制作を続けている。
一方、八巻さんは、2016年にできたメモリアル施設「せんだい3.11メモリアル交流館」の館長となり、その後、せんだいメディアテークに異動。震災から5年が経った頃、震災直後のことを振り返り、次のように語っていた。

あのとき、自分の判断で英断をした館長さんや現場の人々が各地にたくさんいたはずですが、それが正しかったのか、正しくないんだったらどうすればよかったのか、評価や反省がなくて、何もなかったことになろうとしている。 とにかく自信は一切ないんですよ。怖かったです。ただ必要だと言っている人がいて、僕もそうだなと思ったからやっただけで、誰かに断ったわけでもないし、それがなぜかをちゃんと説明できるわけでもない。自分がやっていることが正しいかどうかはあとで分かればいいと思っていたけど、いつまで経っても分からない。こうした現場の葛藤こそ、皆でふりかえるべきだと思っています。(*4)

渦中にいるときは、その活動の「評価や反省」は困難だろう。初動が早いほど、目の前の出来事に精一杯になるのは当然だ。その渦中の熱は思いのほか早く冷めていく。そして、状況が落ち着くにつれて直後から駆け抜けてきた人たちに疲労を生み、支援でかかわる人たちが減っていくことで、「あのとき」の経験は語られなくなっていく。
一方で初動期の知見こそ、ほかの災禍の渦中にいる人たちが動き出すために必要なものでもあり、次の「初動期」への備えとなる。
八巻さんのもとには、2016年の熊本地震を経験した人たちが話をききに訪れた。そのときに八巻さんは「未来から来た人のようだ」と言われたのだという。拓さんは、2018年に阪神・淡路大震災や熊本地震を経験した演劇関係者と、その知見を共有し、生かすため「The First Action Project」をはじめていた。そして、新型コロナウイルスの感染が拡大する現在、さまざまなネットワーク活動にかかわっている。
「あのとき」の経験は、時間が経ったいまだからこそ、振り返ることができるのかもしれない。震災後の活動の成否は、ひとつの出来事だけでは判断ができないこともある。ひとつの経験は次の行動を変えていく。出会ったことのない誰かの実践を変えていることもあるだろう。2011年以降に経験した複数の災禍は、震災の経験を振り返る手がかりになるのかもしれないと思う。

出典

*1、4:『6年目の風景をきく 東北に生きる人々と重ねた月日』(アーツカウンシル東京、2016年)

*2:『Art Rivival Connection Tohoku Report アートリバイバルコネクション東北活動報告 2011.3-2012.4』(ARCT、2017年)の冒頭には、鈴木拓さんが震災から10日後(3月21日)に関係者へ一斉送信したメールが収録されている。

*3:『東日本大震災後、4年目の語り。』(東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、2015年)

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