Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

成果を実感するには、時間がかかるきむらとしろうじんじんの「野点」と「ぐるぐるミックス in 釜石」

2011年12月。わたしは岩手県大槌町にいた。辺りがすっかり暗くなった頃、美術家のきむらとしろうじんじんさんから隣町の釜石市に到着したと電話を受けた。じんじんさんは、リアカーに乗せた窯を使い、参加者自らが絵付けをした器で抹茶を飲むことができる「野点(のだて)」という場づくりを行っており、毎年秋には日本各地をツアーで巡っている。その野点を大槌町でできないだろうかと考え、まずは現場を見てもらおうと、じんじんさんを大槌町までお呼びした。
電話では、まちの中心部にある宿泊先まで歩いているのだと言う。釜石市は一部のホテルが営業を再開していたが、中心街は津波の甚大な被害を受けていた。残った建物は一様に1階部分が津波で抜けていた。信号も点灯していない。日が暮れるとまちの光は、ほとんどない。このときじんじんさんは、真っ暗な道のりをひとりで歩いていたのだろう。
東京から大槌町までの道のりは長い。東京駅から岩手県の新花巻駅まで新幹線で北上し、約3時間。そこから在来線に揺られ、東の終点、釜石駅まで約2時間。当時、釜石駅から大槌駅までの路線は津波の影響で不通になっていたため、車に乗りさらに1時間ほどかかる。ましてや、じんじんさんは京都在住。日中のほとんどの時間を費やし、釜石市までやってきた。


2011年12月11日 岩手県釜石市 中心街の風景

野点にすがる

翌日、じんじんさんと一緒に釜石と大槌のまちを歩いて巡った。震災以前からこの地域で活動してきた特定非営利活動法人@リアスNPOサポートセンター(以下、@リアス)の川原康信さんが案内してくれた。この土地にじんじんさんを呼んではどうか、と発案した東京藝術大学教授の熊倉純子さんも一緒だった。被災する以前と以後のまちの様子をきき、仮設住宅や仮設商店街を見てまわる。支援に訪れている人たちも多くいる時期だった。じんじんさんは、このときの心境を次のように語っていた。

仙台の「野点」を終えた(引用注:2011年)11月頃、岩手の釜石で「野点」をやりませんかという話をいただきました。正直、下見に行くまではとても迷いました。下見に行くというのはやはり「実施する」ということなのだ、という思いがあったからです。下見に行った後に「やめときます」と言えるのか? 何を根拠に「やめておく」という判断をするのか? 「被災地」だからか? やめる根拠となるくらい具体的な経験を1日や2日の訪問でできるのか……。下見に行くことは、「実施する」こととセットだと思っていました。
そう思いながら2011年12月に釜石に着いたときの最初の感想は、それでも「『野点』なんてできないでしょう?」でした。このまちに住んでいる人たちが、今のまちの風景を見ながらお茶を飲んだりお茶碗を焼いたりしたいなんて思うはずがない、と勝手に思い込んだんです。あれほど「具体的であらねば」と思っていたにも関わらず、釜石に着いた途端、まちに住んでいる方たちをまとめて「被災者」、釜石には「被災地」というラベルを大急ぎでかぶせたくなった……それほどの風景でした。(*1)

じんじんさんは、震災直後から「『大震災』『大惨事』『被災地』というラベルだけが頭にどんどん張り付いて」いったことに対して、「具体的になるために『野点』に『すがった』」のだと言う。自分は野点をやるしかない。そう思っていたじんじんさんも、実際の釜石の風景を前に揺らいでいた。中心部の瓦礫はほとんどなくなっていたが、まだまだ震災直後の生々しさが伺い知れる頃だった。
じんじんさんは野点の当日にドラァグクイーンに「化ける」。明るい色彩の衣装に派手なメイクを施した姿を映した写真を見て川原さんは、野点の実施は「時期尚早なのではないか?」と返答していた。震災の爪痕も生々しい当時としては正直な感想だったのだろう。その後、大槌町を訪れるなかで「やってもいいんじゃないか」と語る「具体的な」人々との出会いを拠り所に、じんじんさんは野点の実施を決めた。
野点は開催場所を決めることからはじまっていく。参加者を募り、場所を探して散歩会を開いた。当日一緒に動いてくれるスタッフの説明会も行った。チラシもつくった。そうして2012年秋に大槌町の3箇所で野点が開催された。できあがった現場を見て震災以前から付き合いのあるスタッフは「いつも通りの『野点』でしたね」と言い、その言葉を補うように、じんじんさんは「今の大槌ならではのやりとり、摩擦、作業、風景のある『野点』」だったと語っていた(*2)。
ある会場を訪れたとき、久しぶりに再会した人たちの姿があった。震災以前は近所に住んでいたけれど、被災後に互いの状況を慮り、なんとなく疎遠になっていたのだという。津波の被害を受けたのか、受けなかったのか。仮設住宅なのか、借り上げ住宅なのか。震災が生んだ「ラベル」は近しい人たちの間に、いくつも線を引いた。それを越境するために、じんじんさんがこだわる一人ひとりの「具体的な」出会いがあった。「いつも通り」の「野点」とは、こうした出会いの風景が生まれたことも指すのだろう。
それから毎年、大槌町と釜石市で、ときに場所を変えながらも野点は続いていった。

真骨頂に触れる

2017年10月。大槌町の野点の現場を訪ねた。開催場所の北小福幸商店街は震災後に建てられた仮設の商店街。ここ数年は、この場所で開催されるのが定番になっていた。プレハブの建物が取り囲む駐車場の隣の路上で野点は行われていた。
時折、現場に訪れた人から「じんじんさ〜ん!」と声がかかる。それに応えて、じんじんさんは「おぉ、○○さん」と近況を話しはじめる。じんじんさんを介さずとも同じような会話が生まれている。初めて訪れる人もいる。黙々と作業に没頭する人もいる。買い物をしたり、野点と関係のない会話に花を咲かす人もいる。訝(いぶか)しげに眺めていく人もいる。
空間の真んなかには、じんじんさんが立っている。けれども、そこを中心に場が動くのではなく、誰もが自分なりの「居方」で時を過ごしているように見えた。その場を動かす、それぞれの人たちが「路上」を自分の居場所に変えていく。6年という時間の積み重ねの上にある穏やかな現場に、静かだけど芯の通った運動性を感じた。これまで理解したつもりでいた野点の真骨頂に触れたように思えた。


2012年10月7日 岩手県大槌町 野点の風景(撮影:梅田彩華)

文化事業には時間がかかる。どんなときでもアートは生活の選択肢として社会にあるべきだ。そう思っていたことを、この野点で実感をもって確認できた。時間をかけて育まれたこの風景は、逡巡や摩擦のなかで「はじめた」からこそ出会えたものだった。
震災直後に東北で出会った人たちは誰もが芸術や文化の意義に確信をもった人たちだけではなかった。むしろ、大多数の人たちにとっては訳もわからないものだったに違いない。けれども、そうした「わからないもの」と向き合う時間をともに過ごしてくれる人たちと出会うことで、この事業ははじめられた。そして、実践を共有し、現地状況が変化するなかで「大事」だと確信をもって動きはじめる人も増えていった。

確信がかたちになるタイミング

はじめてじんじんさんが釜石を訪れたときに、まちを案内してくれた川原さんは、数多くの震災関連事業を担っていたため忙しかった。実際に現場で動くことはできなかったが、じんじんさんが釜石に訪れるたびに言葉を交わし、毎年野点の様子を見守っていた。
震災から5年ほど経ち、外部からの支援も減りはじめ、川原さんも一息をつくタイミングが訪れた。まちなかも整備が進み、復興公営住宅や津波で失われた公共施設の建設もはじまっていった。川原さんの口からは被災状況に応答するだけでなく、この土地の未来をどう描いていくのか、という話が出るようになった。外から訪れた話を地元に落とし込むだけではなく、自らの目論見をかたちにするタイミングが訪れていたのである。
2015年、釜石市に「かまいしこども園」が新設された。津波で被災した旧釜石保育園を引き継いだ施設だった。川原さんは、妻の尚子さんが働くこの園を舞台にした「ぐるぐるミックス in 釜石」の実施を後押しすることになる。
ぐるぐるミックスは、2011年にじんじんさんと一般社団法人谷中のおかって(以下、谷中のおかって)が都内の保育園で共同開発したプログラムだ。子供たちを対象に、アーティストが考案した独創的な工作やパフォーマンスなどの「あそび」の時間づくりを行っている。ゲストにまちの大人を招くことや園外の運営メンバーが現場にかかわることで、子供たちに園の先生や親だけでない大人と出会う機会づくりも狙っていた。
じんじんさんは、長らく京都の幼稚園でお絵かきの先生をしており、その経験が生かされている。そして、都内在住の谷中のおかってのメンバーは、釜石や大槌での野点に立ち上げから運営までかかわっていた。ぐるぐるミックスは、地域外から訪れる野点のメンバーの、もうひとつの顔ともいえる活動だった。
川原さんには思惑があった。かまいしこども園の隣には、園と同時期にできた復興公営住宅があった。きれいな集合住宅形式の建物には、多くの高齢者が住んでいる。避難所から仮設住宅、そして復興公営住宅へと住まいを移行していくなかで、生活の再建が困難な高齢世代の比率が高まっていた。何より、震災は地域の高齢化に拍車をかけた。そうした状況を把握する川原さんは「ぐるぐるミックスがあることで、子供たちが復興公営住宅に住むようなお年寄りとかかわれないだろうか。そんな地域の多世代が交流するプログラムにならないだろうか」と何度も語っていた。


2017年10月3日 岩手県釜石市 園内で制作した「みるボー」を使って、
復興公営住宅の上層からまちを眺める

現在、ぐるぐるミックスの運営スタッフの中核は川原さんたちが務めており、さながら園と地域内外のメンバーのつなぎ役としての役割を果たしている。ときにサポートスタッフとして参加する地元のメンバーは、野点を介して出会った人たちがほとんどだ。ここ数年では、園の先生方がぐるぐるミックスから発想したプログラムを、通常の園業務のなかで試みることもはじまっている。また、野点とぐるぐるミックスは、2017年に開館した「釜石市民ホール TETTO」のプログラムとしても実施され、地域のなかに滲み込むように連携の輪は広がってきている。
ぐるぐるミックスは、まちの復旧と重なり合いながら、野点の成果をリレーするようにはじまった。じんじんさんは、震災当初に野点を「押し売り」と形容していたが、いまやかかわる人たちが、それぞれの思いを投影するような活動になった。
何かをはじめるためにはタイミングがある。震災後という変化の激しい道のりにおいては、平時よりも注意深く見定める必要がある。非常時において新たな活動に踏み込むには困難も伴うだろう。成果が現れるには時間もかかる。それは同時に活動にかかわった人たちが成果を実感し、能動的に動きはじめるまでに時間がかかることだともいえる。発災直後はすぐに効果を発揮する対応が求められるが、時間をかけて物事に取り組むことは、時々に変化する復興の状況に応答し続けるためにも必要なのだと思う。

出典

*1、2:きむらとしろうじんじん「大槌での『野点』——押し売りと、ありがた迷惑」『アートプロジェクト——芸術と共創する社会』(水曜社、2014年)

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